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第6期 コーディネーターの活動報告

西脇 笑子 Emiko Nishiwaki
第6期 カロウィー/ウェスタン・カロライナ大学
ノースカロライナ州
愛知県出身。交換留学生としてオランダに行ったのを機に茶華道を始め、自宅で生け花を教える。世界一周の旅や旅行会社勤務を経てJOIに参加。「外国で日本の文化を教える」夢を叶えた。

3万マイル走って伝えたかったこと

2007年夏、派遣されて直ぐに購入した私の車は当時、総走行距離118,000マイル(約19万km)を記録していました。そんなに走っている中古車なんて日本ならとっくに廃車でしょうが、米国ではまだまだ現役です。それがJOIの任期終了前には、合計総距離がなんと146,000マイルになっていました。約3万マイル(約4.5万km)も走ったことになります。目を疑うと同時に、よく走ったものだとしみじみ2年間のJOIの活動を振り返りました。

ノースカロライナ州カロウィーは、周囲を山に囲まれた自然の豊かないわゆる「大学町」といったところです。州の西端に位置し、北はテネシー州、西はジョージア州、どちらにも2時間で行け、夏から秋にかけてグレートスモーキーマウンテン国立公園やブルーリッジパークウェイ等に多くの観光客が訪れます。日本で1分、2分を惜しんで生活していた私には、まるで違う時間が流れているような気がしたのを思い出します。

派遣当初のある日、小学校で日本紹介をした帰りに着物姿で愛車にガソリンを入れていると、一人の女性が店から駆け寄ってきて「どこから来たんですか。この辺の方ではないでしょう?」と話しかけられました。内心「それはこの格好だから・・・」と思いながら、「日本から最近来たんですよ。日本の文化を学校で紹介するプログラムに参加しているんです」と答えると、「娘が小学校に通っているので、是非来てもらえませんか」と突然依頼を受けました。

日本では着物を着る機会は今や稀なので、「生の日本」紹介をするという意味で、着物で学校訪問などのアウトリーチをすることを、実は最初はあまり良く思っていませんでした。しかし、自分の存在が知られておらず、活動の機会がなかなか得られなかったところに着物のおかげで良い話が飛び込んで来た訳です。大げさに見えても、「あっ日本人が歩いている」と分かれば話しかけやすいのでしょう。事有るごとに着物を着て出かけては、急ぎの買い物も無いのにスーパーに入って店内を歩いていると、必ず2~3人に話しかけられるようになりました。そんな中には日本の紹介をして欲しいという方もいて、一度学校で日本の紹介授業をすると、今度は周囲の学校からうわさを聞いて依頼が来るようになります。11月には沢山の依頼で張り合いが出てきて活動がとても楽しくなりました。

周囲の助けもあって順調に活動を進めていた最中の2008年1月末、突然、日本の家族が事故に遭ったという連絡が入りました。時差も考えずに親戚に電話をすると、両親と妹の乗った車に対向車線から車が衝突して3人とも病院に運び込まれたというのです。すぐに飛行機の手配をして、知らせを受けて3日後にようやく家族に対面できました。幸い命は助かったものの、自分がすぐに米国にトンボ帰りできる状態ではなく、しばらく様子をみることにしました。

何ヶ月も前から受けていた依頼を断って、せっかく現地で作り上げた信頼関係やネットワークが壊れてしまうのではないか。もうJOIの活動を辞めて、このまま日本に帰って家族を看病しようか。帰国から十数日は、自宅と病院を往復しながらそのことがいつも頭から離れず、ずっと先のことまで悩んでいました。

そんな中、カロウィーの隣町、アッシュビルの生け花グループからカードが届きました。封筒を開くと綺麗な千代紙で折られた五羽の鶴が励ましの寄せ書きと共に同封されていました。胸がとても熱くなりました。私はその時、家族の回復の目途がついたら米国に戻ろうと決めたのです。

春に米国に戻った私は、付近の学校はもちろん、老人ホーム、公立図書館、時には往復800km先の地域まで出かけ、以前にも増して張り切って活動をしました。こうして活動の場を拡大しながら1年目を無事に終えたところで、2年目には新しい取り組みを始めました。

日本で生け花を教えていた私は、生け花は「なまの花で生けなくてはならない」という固定観念に囚われていました。しかし、目下予算の少ない学校や給食費にも困る家庭では、とてもお花を買う余裕などありません。そこで、折り紙で作った花を使えば材料費に困らないのではと考え、折り紙での生け花を試すことにしたのです。

すっかり顔なじみになった小学校の先生に快諾いただいて、まずは教室で生け花の基礎や歴史を教えます。そして、校庭から取ってきた木の枝と折り紙の花を使い、それぞれ小さなプラスチックのカップに給水スポンジを入れての生け花です。生け終わると、生徒は皆一様にとても喜んで自分の作品を眺めていました。すると一人の男の子が、この生け花を家に持って帰って良いかと勢い込んで聞いてきました。「勿論いいですよ。どうするの?」と聞くと、「ステップマザー(継母)にあげるの!」と大事そうにコップの花を持って行きました。その言葉を聞いて、日本で20年間生け花を習っていて何を勉強してきたのか、と自分を責めました。私は今まで生け花の基本を忘れていたんじゃないか、とつくづく感じました。ノースカロライナを3万マイル走って伝えたかったこと。私が日本のことを伝えたかったはずなのですが、実はそれは、生け花が私に伝えたかったことではなかったのかと思います。

現在は2年間お世話になった大学の大学院で美術の勉強をしてとても充実した毎日を送るとともに、日本文化紹介の活動も続けています。きっとこれからもずっと、私のライフワークになることでしょう。

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増田 環 Tamaki Masuda
第6期 サンアントニオ/サンアントニオ日米協会
テキサス州
会社員として米国に駐在し、現地スタッフに対する「日本の文化レクチャー」を実施。帰国後、日本語教師養成講座を受講し、再び日本文化・日本語を伝えたいと思いJOIに応募。

ビバ サンアントニオ

「派遣先:テキサス州サンアントニオ市」という連絡を受けた時、「テキサスに縁があるな」と思いました。テキサス州は、子どもの頃2年近く住んだ所だったのです。幼すぎて、その時の記憶は全くありませんが、テキサス州の位置や形は知っていましたし、両親の友人もいましたので、不安というよりは期待の方が大きかったです。

テキサス州は米国の州のうちで2番目に大きな面積を持ち、その中でもサンアントニオ市は全米第7位の人口を持つ都市です(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)。インターネットやガイドブックでサンアントニオについて調べ、その事実を知った時「都会で良かったなぁ」とほっとしましたが、いざサンアントニオに降り立つと、日本の都会のイメージとはかけ離れた所でした。

生活に慣れると、学校でプレゼンテーションをしたり、イベントに参加して日本文化を紹介したり、日本語クラスを受け持ったり、と様々な機会で日本の文化をサンアントニオの人たちに紹介することが出来ました。接する子どもたちや学生など、皆さんが私のプレゼンテーションを楽しみにしてくださって、終わった後に「サンキュー」と言ってくれるのが、とても嬉しかったです。

サンアントニオ日米協会が参加しているイベントのうち、一番大きなものは毎年6月に3日間開催される「フォークライフ・フェスティバル」への参加です。これには、サンアントニオ中の様々な民族や団体が、それぞれの文化を紹介したり、食べ物のブースを出したりするものです。サンアントニオ日米協会もカレー、焼きそば、焼き鳥、おにぎり等の食べ物のブースを出します。前日には大量の玉葱、人参、ジャガイモ、牛肉等をボランティアの方々と下準備し、当日は朝からテントの準備、調理、販売などをします。日米協会の会員やその他の方々が、ボランティアで3日間食べ物の販売をして、毎年日米協会のブースは大盛況です。6月と言うと、日本では梅雨ですが、サンアントニオは既に真夏。毎日暑い日が続いて気温も上昇し、テントの中にいても熱中症にかかるほどでした。しかし、暑い中、食べたカレーの美味しかったこと。3日間、とにかくお昼に食べられる日本食を楽しみにしていました。ボランティアをお願いするときの勧誘の言葉が「美味しい日本食が食べられるよ」という事からも分かるように、皆が日本の食べ物を本当に楽しみにしていたのです。

駐在員ご家族との交流も楽しかった事の一つです。サンアントニオには、日本の自動車メーカーの工場が多くあり、日本人も大勢住んでいます。駐在員のご家族の中には、『「日本」についてサンアントニオの地域社会に知らせたい。ただ、どうやってボランティア活動に参加すれば良いのか分からない』と思っている方々も沢山いらっしゃいました。お互いの母語を教えあう「ランゲー・エクスチェンジ」や書道クラスの講師、イベントでの折り紙・習字指導等をお願いしたところ、皆さん快く引き受けてくださって、とても楽しんで参加してくださり、その他のイベントにも積極的に参加してくださるようになりました。

また、サンアントニオ日本語補修校でもお手伝いをさせていただき、沢山の子ども達と出会うこともできました。彼らの目はいつも澄んで真っすぐで、とても素直でした。私にもこういう時代があったのだな~と思ったものです。1週間に1度、彼らと一緒に勉強したり遊んだりする事を心待ちにしていました。

休日には様々な場所に旅行もしました。テキサス州は大変広い州ですから、9時間ドライブしても、まだ州内という事もありました。その広大な土地に、砂漠のような地域があったり、湿地帯のような場所があったり、牧場があったり、と気候も地形も大変変化に富んでいます。長距離ドライブで、国立公園を訪れたり、メキシコとの国境を見に行ったり、他のJOIコーディネーターを訪ねたりと、テキサスの大自然を満喫しました。あちこちドライブ旅行に行くうちに、いつの間にか5時間程度のドライブは「短い」と感じるようになっていました。

2年間で、日本にいたら出会う事が出来なかった沢山の人たちと出会い、様々な場所を訪れ、文化を吸収する事が出来た事は一生の財産だと思います。出会った多くの方々との思い出をいつまでも大切に、いつの日かどこかで会えるようにこれからも連絡をしていきたいと思います。

サンアントニオが日本人にもっとメジャーな街となり、日本人が訪れる街のひとつになれば良いなと願っています。

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松下 佐智子 Sachiko Matsushita
第6期 メンフィス/メンフィス大学 国際プログラム&サービスセンター
テネシー州
27年間勤務した高校の国語教師を辞し、『源氏物語』研究のためにオーストラリアに留学。2006年に帰国後、「日本文化の紹介」という言葉にひかれJOIに応募。現在は中国で日本語を教えている。

メンフィスの心の友 ―草の根交流の終了報告

日本文化を紹介するというJOIの活動の中で、多くの人に働きかけてきた私は、同時に、多くの人の優しさにふれるというすばらしい体験をしてきました。2年間の活動が終了して日本へ旅立つ日、夜が明けたばかりだったにも関わらず、10人近くの人が、「あなたはレジェンド(伝説の人)よ」「必ず、いつか戻って来てね」という言葉とともに、空港に見送りに来てくれました。こういう、人の優しさに支えられて、私のメンフィスでの活動があったのだと、胸を熱くしました。

名残惜しみながら米国を離れた私の一つの慰めは、私の去った後にも多くの人達が、日本文化の紹介という種を育てようとしてくださっていることです。テネシー州日米協会には新たにメンフィス支部が発足し、そのプログラムマネジャーの方が、様々な活動を引き継いでくれることになりました。私が講師をしていた茶道教室も、「The Way of Tea in Tennessee」という会によって続けられることになりました。そのメンバーは、ボランティアとして初めからお手伝いしてくださった方々や、熱心に毎週土曜日のお稽古に通って来てくださった方々が中心です。さらに、所属先の大学で開催していた書道教室も、日本企業に勤める方の奥様によって、継続して開かれることになりました。また、8年前から途絶えていて、JOIをきっかけに息を吹き返した地域の日本祭りも、今後定期的な開催が約束されています。日本文化にかかわる活動が、多くの人々によって求められ、メンフィスに着実に根を下ろし始めたことを本当に嬉しく思っています。

私は幸運にも2つの出会いに恵まれました。一つはメンフィスに着いた翌日の夜に参加した、ボタニックガーデン(植物園)のキャンドルライトツアーでの出会いです。生け花インターナショナルの支部の方々による生け花がエントランスホールに飾られ、たくさんの着物が美術品のように優雅に展示されていました。広い日本庭園を説明付きで巡るツアーの前に、私は、驚きの目で生け花と着物を見つめていました。生け花の美しさもさることながら、着物の品の良さ、そして独特の展示の方法に感心していたのです。その時、一人の女性が自己紹介をしながら、「このような着物の展示の仕方は、日本文化に対して失礼ではないでしょうか」と尋ねてきました。「日本の古い着物がここで生き返ったように感じ、その美しさを再認識しているところです。」と答えたところ、大変喜んでくれました。この女性こそ、私のメンフィスでのあらゆる日本文化紹介活動を支えてくださり、私の心の友の一人となった人だったのです。

彼女は大学で芸術を教えると同時に、趣味でダウンタウンに着物の店を構えていました。もともと退職を目前にした彼女が、その後の目標を日本文化の勉強においた矢先に、私がメンフィスにやって来たのです。折り良く、ボタニックガーデンから何か芸術のワークショップを開いてほしいと頼まれた彼女は、私にその機会を譲ってくれ、月1回の日本文化紹介講座を開くことになりました。書道、折紙と風呂敷、日本のデコレーション・門松、能、日本の家庭料理、日本のコミュニケーションとエチケット、俳句、源氏物語、茶道、と日本の様々な側面を紹介し、コミュニティーの方々に恒常的に参加していただく活動にすることができました。

もう一つは、メンフィス大学でアジア演劇を専門とする先生との出会いです。彼女は、大学のウェブサイトに掲載された私の経歴を見て、「能」のプレゼンテーションをしてほしいと連絡してきました。長年趣味として習っていた謡(うたい)を米国で披露する機会が訪れようとは思ってもいませんでしたが、パワーポイントで能の歴史と背景を伝え、謡のパーフォーマンスをしました。すると学生たちは、能に対する興味と関心を深め、本物の能の上演が観たいという夢のような要求をしてきました。その思わぬ反応の大きさに驚きながらも、演劇科の先生、私のスーパーバイザーの日本語科の先生と一緒に、どうしたら上演ができるか模索する日々が始まりました。学生たちの夢が私たちの夢となったのです。

2009年1月、観世流の浦田保浩氏と2人のシテ方、4人の囃子方、そしてスタッフの総勢8人をお招きして、ついに夢が実現にいたります。国際交流基金、メンフィス大学、日米協会、メンフィス商工懇話会、在ナッシュビル日本国総領事館、ジョージア大学、ベルモント大学など多くの組織の援助を受け、さらに演劇科、日本語科を中心とする学生たちに支えられて、米国南部で初となる能公演でした。また、準備中に起きた様々な困難を克服する過程で、多くの人と心から信頼できる関係になりました。この方々も私の心の友となったのです。

このような一大イベントを実行する力となったのが、その前秋に開催したボタニックガーデンでの日本祭りでした。裏方となって支えてくれたボランティアの方々、そして、祭りに参加してくださった多くの方々が、観たこともない「能」の公演に、日本文化だからと関心を持ってくださったのです。まさに、2年間の活動を通じた人と人とのつながりが、少しずつその輪を広げていったと思われます。JOIの活動の中で私自身が得た大切なものは、文化が結びつけてくれた人種を越えた人とのつながりだということができると思います。

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山崎 和子 Kazuko Yamasaki
第6期 ハリファックス/ハリファックス公立学校区
バージニア州
大阪万博ホステス経験後、在大阪英国総領事館に勤務。結婚後、地元滋賀県で通訳・外国人サポート・里山保全等、多岐に亘るボランティア活動に従事。海外でボランティアがしたくてJOIに応募。

I love Halifax

還暦を迎え、第二の人生のスタートに海外ボランティアの道を探していた時、JOIコーディネーターの募集を知り、応募したのが始まりでした。2年間の任務を私なりにこなして帰国できましたことは大きな喜びです。

派遣先は、バージニア州南部、ノースカロライナとの州境に近い田舎町ハリファックスの教育委員会でした。人口は3万5千人程で、おおざっぱに分けて白人6割、黒人4割、ヒスパニック系他が2%程です。人口減少率4.9%、貧困レベル以下の世帯が18.6%(U.S. Census 2007)。バイブルベルトと言われるアメリカ南部の特徴を顕著に持つ地域で、キリスト教各宗派の教会があちこちに建っています。人々は教会を中心に、助け合い支えあって生活していて、古き良きアメリカが残っています。

初対面の人から何度も聞かれたのが「何故こんなところに日本文化を紹介する人が派遣されたの?」でした。在住日本人ゼロ、日本企業の進出も大学もないハリファックスでは、日本と言えば、市場独占かと思えるほど多い日本車、中国人が経営する日本食(と言っても日本風の中華)レストラン、漫画やゲームといった商品です。これほど日本とのつながりが少ない所への派遣は、2002年にJOIプログラムが始まって以来だったことでしょう。グローバル教育の必要性を主張していた教育委員会の管理職の熱意で実現した派遣ですが、受け入れ側にとってもまた赴任した私にとってもゼロからの出発、全てが手探りで始まりました。

しかし、たった一人の実物の存在は、そこに居るだけで日本の広告塔の様に映ったに違いありません。「遠い異国に文化紹介のボランティアに来た60歳の日本女性」というだけで周囲の注目を集め、よくこんな田舎の教育事情の悪い所に来て下さったと感謝されて、大いに歓迎された事はとてもラッキーでした。活動でプレゼンテーションをする度に地方紙に写真入りで紹介され、頻繁に新聞に載るもので、「ハリファックスで一番のセレブね」とも言われました。広告塔に徹することにして、できるだけ着物や、着物を潰して作った作務衣で出掛けるように心がけました。

1年目に好評だった太鼓演奏会をもう一度やろうと、大手スーパーのWal-Martから助成金を頂き、2度目の太鼓演奏会を開催して、生徒や市民に日本太鼓の演奏を楽しんでもらいました。また、毎日同じ学校に通って日本文化(紙芝居、習字、学校生活、年中行事、お箸を使った日本人の食事マナー等)を紹介する機会もありました。お隣の州の学校からも文化紹介の依頼が来るようになり、ますます忙しくなりました。

2年で任期を終えて私が居なくなることを考えると、何か継続して日本文化に接する場や機会を残さなければとの思いを強くしていたある日、ホームステイ先の庭の芝生に椎茸が生えているのを発見。英語名も「Shiitake」と呼ばれて需要・供給もあり、他の椎茸より栄養価も価格も高いことが分りました。里山保全活動で経験していた椎茸栽培のノウハウが、米国ハリファックスの地域興しに役に立つのではないかと心の高揚を覚えました。合わせて桜の植樹もしようと、椎茸栽培紹介と桜の植樹祭の2つのプロジェクトを実行する方針を固めました。

全てが順調に進んだわけではありません。2008年末には首に腫瘍が見つかり、一時は活動を中断して帰国せざるを得ないかと考えましたが、治療を受けて無事に回復。また、椎茸栽培に使う原木が、私の指示した通りに手に入らず、バージニア工科大学公開教育部ハリファックス事務所の担当官と、実際に林に入って伐採したこともありました。苦労を乗り越えつつ、無事に3月初めには、椎茸栽培の実践セミナーを高校の農業クラスや地域のセンターで開催することができ、ヘルシーな日本食に対する関心とShiitakeの収穫に期待する参加者の熱意を感じました。そして何よりも嬉しい事に、協力して下さった大学の担当官が、今後も継続して椎茸栽培の公開講座を催す事を約束して下さいました。

4月には地元のエドモンド公園で桜の植樹祭が開催できました。小学校の生徒達には日本語と英語で「さくら」を歌って式典を盛上げてもらいました。実は懸念が的中し、7月の時点で半数以上の木が枯れてしまう事態となったのですが、帰国寸前に「桜植樹基金」が設立できて、2009年の冬に桜を植え直す事と、今後も継続して植樹していく目途が立ちホッとしました。JOIプログラムでは合言葉のように“Each site is different.(それぞれの派遣先でそれぞれ独自の活動を)”と言われていましたが、正に、片田舎ハリファックスならではのアウトリーチ活動になったと思います。

米国での2年間の生活を終えて心に深く残っているのは、人々のいつもポジティブで前向きな考え方や、あらゆるチャンスを捉えて子どもに限らず大人をも褒める習慣、感謝や喜びを言葉に表して心配りをする生き方です。皆さんからの温かい言葉と励ましに支えられて任期を全うすることができたと感謝しています。

貴重な機会を与えご支援下さった日米センターとローラシアン協会のスタッフの方々に深くお礼を申し上げます。

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山田 悠花子 Yukako Yamada
第6期 ユニバーシティ/クロフト・インスティテュート・フォー・インターナショナル・スタディース
ミシシッピ州
大学院卒業後、愛知県国際交流協会で、愛知万博後の地域の国際交流推進に携わる。JOIプログラムを通じて日本理解/国際理解への関心を深め、今後も何らかの形で貢献していきたいと考えている。

Thank ya’ll!!

初めてミシシッピーへ来たのは2007年の夏。全てが新しい中、手探りで始まったJOIの活動。並々ならぬやる気と期待で胸を膨らませてやって来たものの、慣れない環境に戸惑い、コミュニケーションもうまくできず、気ばかりが張っていた一年目。それが2年間の活動を終えた今、何でも揚げてしまう脂っこい南部料理を恋しく思い、ミシシッピーを愛おしく思っている自分に気づきます。

ミシシッピーでのJOIの活動は多岐に渡りましたが、2年目は特に、地元の小・中学校、高校への学校訪問が活動の中心となりました。中でも印象深い活動は、ある小学校での活動です。2008年の夏、クロフト・インスティテュートと共同で私の受け入れ機関になっていたMississippi Geographic Allianceが毎年開催する先生向けのワークショップで、ニュートン先生と出会ったことが始まりでした。

ニュートン先生の勤める学校はヤズー市という人口11,425人の小さな街にあります。市内のアジア人口比率はたったの0.6%(2008年U.S. Census Bureau調査)。小学校3年生から5年生までが在籍する小規模な学校です。日本文化紹介を行うにあたり、先生の希望は3つありました。1、ミシシッピーの外との交流の機会がほとんどない子どもたちに、日本のことを紹介して欲しい。2、長期間定期的に訪問してほしい。3、学校で日本祭りを開催し、ニュートン先生のクラスの生徒が、他のクラスの生徒に日本のことを伝える学び合いの機会をつくってほしい。これらを踏まえ、何度も先生と話し合いを重ねながら9ヶ月間のプログラムを作成し、最終目標となった日本祭りの準備が始まりました。

初めて学校を訪問した日、何人もの子ども達が駆け寄って来て、私にこう尋ねました。「Are you a REAL Japanese?(本当に日本人ですか?)」そうだよ、と応えると、目をまん丸くして、はにかみながら、キャッキャと立ち去って行きました。アジア人口が極端に少なく、中華レストランで働いているアジア人を見るのでさえも稀な子どもたちにとって、日本から来たと言う外見の違う誰かがクラスにやってくるということは、大きな衝撃だったのでしょう。その後、月に一、二回学校を訪問し、日常マナー、学校生活、季節の行事、など様々なトピックのワークショップを開催しました。生徒達は、廊下で私を見つけると、すぐさま駆け寄って来て上半身をこれでもかと倒して「ヤマダサン、コンニチハ!」とお辞儀をしてあいさつしてくれました。学校訪問が中盤になってくると、自分の名前を日本語で書くことを覚えた生徒が、それ以降どのプリントにも日本語で名前を書くようになり、他の教科の先生方を困らせることもありました。また、私が学校の廊下を歩いていて、他のクラスの生徒達に「あ、中国人だ!」と言われた時に、「違うよ。ヤマダさんは日本人だよ。知ってる?日本にはね、、、」と自慢げに説明し始めるようになるということもありました。9ヶ月間、生徒達の変化に寄り添いながら、私も彼らからたくさんのことを学びました。また、JOIの活動の難しさを再確認する機会にもなりました。子ども達は本当に素直に何でも吸収するため、自分の発することに責任を持たなければというプレッシャーを感じたのです。彼らにとって、きっと私は初めて出会う日本人であり、もしかすると最後の日本人になるかもしれません。伝えていることは正確だろうか、ちゃんと受け手に伝わっているだろうか、先生が求めていることに沿っているだろうか、常に厳しく意識する必要性を感じました。

日本祭りでは、それまでのワークショップで紹介したトピックを中心に10以上のブースをつくり、役割分担した生徒達が各トピックについて説明、実演する形式で行ないました。当日は、全校生徒、教師達は勿論、保護者や地域の方々も招いて、大にぎわいでした。初めは日本の位置さえ曖昧にしかわからなかった生徒が、自作の日本地図を指差しながら、「日本がどこにあるか知っていますか?これは北海道、これは本州、、、」と周りに説明している姿にはとても感動したことを覚えています。

最後に、ニュートン先生から頂いた記憶に残る言葉を紹介します。先生は、「生徒達は毎回、ユカコの訪問をとても楽しみにしていて、中には、『今年は毎日学校へ来ることが楽しい』と話す子もいるのよ」とおっしゃいました。【日本のことを知ることが楽しい!→他のことにも好奇心が生まれる!→学校へ来ることが楽しくなる!】JOIプログラムを通じた様々な活動の中で、訪問したクラスの中で、少しでもこのような正の循環が生まれていたとしたら、本当に、本当に嬉しいことです。JOIの活動の、また文化交流の未来への可能性を感じた一言でした。

2年間、本当に沢山の人々に支えていただきました。この場を借りて心から感謝いたします。どうもありがとうございました。

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