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第8期 コーディネーターの活動報告
Arigato, Yoko- sensei!
ブルーのToyota Yarisとともに駆け抜けた私のJOIコーディネーターとしての2年間は波乱万丈という言葉がぴったりと当てはまるような2年間でした。もともと日本でもペーパードライバーだった私がマニュアルのYarisを購入し、初めは危なっかしい運転をし、何度も道に迷い、とても恐ろしい思いをしたことも多々ありました。そのような私が2年後には一人で車を乗り回して活動できるようになりました。私の小さな青い車のたくさんの傷や窓ガラスのヒビはそんな波乱万丈の2年間の努力の象徴です。なかなか、自分を客観的に見て自分の成果を評価するというのは難しいですが、このような小さな変化もJOIというプログラムが私に与えてくれた成長の一つです。

私が2年間JOIコーディネーターとして活動した、ここフォートスミスは、意外と控えめでシャイな人が多いところです。もちろん子どもたちはというと、世界中どこでも同じ、元気で好奇心旺盛、教室を訪問すれば質問の嵐ですが、日本にも様々な人がいて、それぞれ違った文化があるように、アメリカも土地によって人も文化もこれほど違うものかと実感しました。そしてなんといってもアメリカ南部といえば、ホスピタリティー。都会にはない、人との距離の近さ、コミュニティの絆の強さ、義理人情が根強く残っている地域です。その様な地域でのアウトリーチ活動は、接する人との距離が近く、とてもやりがいのあるものでした。コミュニティでお習字や日本語を教える機会に恵まれ、「Yoko- Sensei」と呼ばれたのも人生で初めてで、はじめはうれしいような、照れくさいような気持ちでした。しかし、活動を続けていくうちに、生徒に何かを「伝える」という行為にとても魅力を感じるようになり、この先も「教える」という活動を何らかの形で続けていきたいという目標を持つことができたのもJOIのおかげと、このプログラムに参加できたことにとても感謝しています。

JOIコーディネーターとして活動した2年間は私自身の人生においても大きな変化の時期でした。この地に派遣されてから2ヵ月後、まだ新しい環境での活動に慣れない矢先に父が他界。2年目には3/11の東日本大震災が起こり、祖母が他界。そして原子力発電所の近くに住む家族が被災、放射能の影響で、生まれ育った町を失いました。この3/11の東日本大震災の影響で、計画していたコミュニティ内での和太鼓のプログラムも、演奏者が渡米できなくなってしまった関係で、残念ながら中止となってしまいました。しかしながら、災害復興の募金活動やイベント、そしてプレゼンテーションを通して、地域の人々に日本のこと、災害後の現状を知ってもらう機会を提供できたことは良かったと思います。
地震後に立ち上げた災害復興プログラムの中でも、特に力を注いだのが、スーパーバイザーやアーカンソー大学フォートスミス校の多大な協力を得て立ち上げることができた、被災奨学金です。生活そのものを復興するのもままならない中、住む場所を失った学生さんたちには、学業への復帰はどうしても二の次になってしまいます。そのような境遇に置かれた被災地の学生さんに安心して勉強できる環境と機会を与える協力がしたいというフォートスミスのさまざまな方々の募金や協力、励ましを得て、宮城県から被災された2人の学生さんを受け入れる被災奨学金を設立することができました。

かくいう私自身もこの地震でたくさんのものを失った被災者の一人です。地震の直後はあまりに突然の出来事に、それほどのショックも感じることができず、ただ、家族の生存が確認できたことへの安堵感しかありませんでした。しかし、地震からしばらくたつと、今後自分の家族と自分自身はどうなってしまうんだろうかというとてつもない不安が襲い、訳もなく不安になり涙が止まらなくなることもありました。しかし、たくさんの人からあたたかい励ましの言葉やサポートを受けるうち、そのような励ましに報いることができるよう少しでも災害復興や被災者の方々の力になりたいと強く思うようになりました。地震の際、アメリカにいた私には、実際に日本で地震を経験した被災者の方々がどのようなつらい経験をしたのかは計り知れません。また、日本国外で何か力になりたいと思ってもできることは限られてしまいます。そのような状況の中、この奨学金を通して2名の学生さんが学業を続けられるようお手伝いできる機会を得たことはとても幸運だったと思います。
このようにJOIの活動を振り返ってみると、活動を通して接した方々からのあたたかいサポート、様々な面での自分の成長など、プログラムを通して得ることのできた恩恵に報いるだけのものを私もコミュニティに返す事ができたことを祈るばかりです。2年間、貴重な機会を与え、ご支援くださった国際交流基金、ローラシアン協会、アーカンソー大学フォートスミス校、フォートスミスの皆様には、この場をお借りして、心から感謝申し上げます。

絆「人と人とのつながりが生み出すもの」
2009年の夏、希望とやる気を胸一杯にセントルイスの地に降り立った日のことは今でも忘れません。家族や友人、多くの方々に支えられ、励まされました。予想以上のことを学び、経験させてもらえたこの2年間の活動を振り返りながら印象に残った2年目の出来事や感想をお話しさせていただきます。
1年目同様、2年目の主な活動内容は、(1)地域の小・中・高校での日本に関する授業提供、(2)地域の図書館やその他の公共施設での日本文化に関するワークショップの展開、(3)ウェブスター大学内での日本語・日本文化の促進活動でした。特に2年目は、セントルイスに何かを残したい、ということを意識してこれらの活動に取り組みました。そこで、自分が去った後も少しでも持続可能な活動にするために、新たに挑戦したことを二つ、ご紹介します。
まず、先生向けのワークショップを合計3回開催しました。子どもたちに普段接するのは現場で働いている先生方です。先生自身の日本に対する興味関心の有無で子供たちが学ぶ量や内容が大きく変わります。対象となったのは主に社会科の中学・高校の先生方で、扱う内容は「社会の変化:育児をする男性/働く女性」や「少子高齢化」「日本人女性の役割」「日本の中高生」などでした。

まだ日本では男尊女卑の流れが強いと思っている先生方がいる中、その流れが変わってきていること、少子化対策の取り組みなどを紹介すると、「なるほど~!」と興味深そうに聞き入ってくれました。ワークショップ後の先生方の感想を読むと「これからは日本にももっと目を向けて授業をしてみるよ」と、前向きな意見が書かれていて、とても嬉しかったです。ワークショップで知り合った先生方からはその後、定期的に訪問授業をさせてもらう機会も得て、よい関係を築くことができました。
次に、地元の大学生や高校生、日本人の方々と協力して学校訪問や図書館での活動も行いました。2010年10月、ある高校の先生から、学校で「日本祭」を一週間行いたい、との依頼を受けました。具体的には、どの授業にも日本をからめた題材を扱ってほしい、とのことでした。茶道・華道・書道・お箸の使い方・料理・禅・着付け・アニメ・漫画・ゲームなど、伝統的文化からポップカルチャーまで扱う内容は幅広く、とても一人では成し遂げられないことが確実でした。

そこで、1年間、築き上げてきた在住日本人とのネットワークを活かし、学べる方からは学び、協力してもらえる方には協力していただきました。大学生からもボランティアを募りました。生け花の先生は当日の都合が悪かったので、高校生でもできる簡単な生け花の生け方を先生自ら私に伝授してくださり、大変助かったのを覚えています。実は、セントルイスには、大小様々ですが、日本人コミュニティが数多くあります。それぞれの分野に誇りを持ち、専門性も高く、私も勉強させてもらうことが多々ありました。このようなコミュニティと地域の学校や図書館が一緒に交わりあう機会を何回も設けることで、新しい発見やつながりが生まれることに気付かされました。世代や人種を超えた交流は大きな感動と元気を私たちに与えてくれます。そのことを深く理解させてくれたのが次にあげるもう一つの事例です。

2011年3月11日、東北地方で未曾有の大惨事が起こりました。それ以来、学校や図書館で出会う子どもたちや大人たちからは必ず、「日本の人たちは大丈夫か。自分たちに何ができるかな」と聞かれます。私の知っている限り、セントルイスでも多くの小・中学や高校、大学で義援金を募る活動が行われました。私が赴任した当初は日本を一国として理解していなかった生徒たちが、今では東日本の復興支援のために大きな声を出して募金箱を抱えている姿を見たときは、何とも言えない気持ちになりました。私の所属していたウェブスター大学でも、日本人学生や教授陣を中心に義援金を集めるため、様々な活動が行われました。その際、地元のコミュニティの方々が大勢、ボランティアとして参加・協力をしてくださいました。一人ではできないことでも、多くの人々が協力しあうことで計り知れない大きな力が生まれます。絆が生み出した人のあたたかさとパワーを強く感じた瞬間でした。
私が残せたもの・・・それは結局のところ、目に見えず、はっきりとはわかりません。ただ、自信をもって言えることは、私が去っても、セントルイスには日本が大好きで日本を理解しようとする人々の絆がある、ということなのではないかと思います。
JOIを通して、自分の国や文化に誇りを持ちつつ、世界の様々な国やその文化を尊重することで、より平和で心豊かな社会が生まれると強く感じました。この場をお借りしまして、この貴重な機会を与え、支援してくださった国際交流基金日米センター、ローラシアン協会、ウェブスター大学、セントルイスの皆様には心から感謝申し上げます。

日本を伝える意義
私はミシガン州にあるウェスタン・ミシガン大学の曽我日本センターに派遣されました。私にとってJOIに参加していた2年間はあっという間だったというよりも、むしろ大きな変動のある2年間だったという感じがしています。
1年目の最初の3ヶ月間は何から始めてよいのだろうという戸惑いと、一緒に派遣された他のコーディネーターに比べて遅れを取っているという焦りがありました。4ヶ月目に高熱を出し一人でベッドに横たわっていた時には「私は一体何をしにアメリカに来たのだろうか」ということをグルグルと考えていたことを覚えています。しかし、冬頃には日本の小学生の作品展示会や日本映画上映会をはじめとする様々なプログラムが無事スタートし、学校のみならず地元の図書館や美術館からもプログラムの依頼が来るようになり、老人ホーム、教会などの様々な場所でも活動を展開していくことができるようになりました。
活動を通して特に印象に残っているのは、自分自身が意図していない角度から現地の人に影響を与えられていると感じられた時です。ガールスカウトのプログラムでは、子どもたちに海苔巻きの作り方を教えたり日本の生活様式や日本語の歌を紹介したりしたのですが、プログラムが終わった後に子どもたちからだけではなく、子どものお母さんとおばあさんからも素敵な手作りのカードが届き、驚きました。

子どもを対象に日本を伝えていると思っていたのですが、実は周りで見ていた保護者を含めた3世代に渡って私の言葉が伝わっていたのだとわかり、とても嬉しかったです。また、ある図書館では、私のプレゼンテーションが終わった後に若い男性が日本語で話しかけてくれて、彼は「独学で日本語を勉強してきたけれど、初めて本物の日本人に話しかけることができて、そして自分の日本語がちゃんと通じることが分かって本当に嬉しいです」と興奮気味に伝えてくれました。また、ハロウィンのときには仮装をして訪問してきた白人の小さな女の子に「あなたを知ってる!テレビで見た!」と言われて苦笑してしまいましたが、その子にとっては私が初めて見る実物のアジア人で、私を見るまではアジア人=テレビの世界の人でしかなかったようなのです。

実施したプレゼンテーションの中で一番大変だったのは、地元の美術館から、浮世絵展示に合わせて「The Art of The Kimono(着物の芸術)」というテーマのプレゼンテーションをしてほしいと依頼された時でした。私自身、着物は渡米する直前に着付け講習で学んだ程度だったので、着物の歴史や浮世絵については一から勉強しなければなりませんでした。緊張して臨んだ当日は予想以上にたくさんの方が聴きに来てくださり、「とても楽しかった!」というコメントやたくさんの質問をいただくことができ、終わった後には心地良い疲労感と大きな達成感を感じることができました。

2011年3月に実施したマンガワークショップは、一番長い時間をかけて実現させたプログラムでした。このプログラムは、漫画家のお二人を日本からお招きして漫画の描き方(ペンとインクの使い方やスクリーントーンの使い方)を教えてもらったワークショップで、国際交流基金ニューヨーク日米センターの助成により実現させることができました。

実施に向けては、航空券の手配や画材の発送依頼、日程調整、謝礼金の支払いと税金の手続き、予算・決算の作成など裏方の事務が主でしたが、慣れない英語での事務手続きには本当に苦労しました。日本だったら1時間できるような仕事が英語だと2時間も3時間もかかる…そんな自分がまるで赤ん坊のように感じられ、早く英語でちゃんと仕事ができるようになりたいと毎日思いましたが、上司のスティーブ・コベル先生の温かいご指導のおかげで、プログラムを無事に成功させることができました。コベル先生は本当に多忙な中、2年間私のことを丁寧に指導してくださり、この先生の下で働くことができた私は本当に幸運だったと思います。
JOIプログラムは派遣先によって環境は異なりますが、プログラムの真髄は一つで、それは「日本に興味を持ってもらい、日本を好きになってもらうこと」だと思います。それを実現させるためには、その媒体はTVでもインターネットでも人でも良いのですが、必ず生きた正しい情報を伝えていくことが必要だと強く感じました。特に現代のアメリカにおいては日本のアニメやマンガやゲーム以外では日本と接する機会がない青少年も多くいるので、それらとは違う別の角度から日本を伝えていくことの重要性が今後高まっていくだろうと私は思っています。
日本を伝えるというアウトリーチ活動自体はその効果が見えにくいのですが、JOIの2年間を終えた今、いかにしてこの活動を継続・拡大させていくことができるのかを考え、その意義と手法について研究しながら、もう一度アメリカで日本を伝える活動をしていきたいと思っています。
つながっていくこと
「やっぱり自分の家って落ち着くなぁ。」2年目に入る前に夏休みをとって一時帰国した時に感じたことです。夏休みが終わりフィンドレーに戻ってきた時、目の前に広がるのどかなトウモロコシ畑を見て、あたたかくて優しい故郷に帰ってきた気がして安心した気持ちになったのを思い出します。JOIの活動を始めて1年、新しいことばかりで必死の毎日を過ごした地は、もうすっかり第二の故郷になっていました。
様々なことがあった2年間、「つながり」をキーワードに特に印象深かったお話を紹介したいと思います。
スーパーバイザーの先生と私が、それぞれ活動弁士、落語家の方々とつながりがあり、それをもとにオハイオ州での活弁・落語口演を開催できればいいですね、と渡米する前から考えていた企画を2年目の秋に、国際交流基金ニューヨーク日米センターから助成金をいただいて実施することになりました。これまで大きなイベントに関わったことがなく、計画・準備と分からないことだらけで手探りでのスタートとなりました。活弁・落語は茶道や生け花と比べるとあまり知られていないので、新しいものを紹介できるというワクワクした気持ちとともに、受け入れてもらえるだろうかといった不安も感じていました。映像や動きを見るとしても、より言葉に頼る文化であるため、日本語に親しみのない人たちがどう感じるのかが心配の種でした。

しかし、始まった途端、そんな心配はたくさんの笑顔と笑い声でかき消されました。会場が一体となって小噺(こばなし)のワンシーンの動きをしている姿を見た時、大きな声で一生懸命、国定忠治の名ゼリフ、「赤城の山も今宵を限り~」と演じている姿を見た時、また口演後数ヶ月経って、「今でも家の冷蔵庫にセリフを貼って練習している」と学生が話してくれた時に、全ての不安や苦労が吹き飛びました。その場にいた人たちが演者の方々と接することで文化を体感する、その場面を目の当たりにした時でした。メインの活動が学校訪問である私は常に自分がプレゼンテーションをする立場で、プレゼンを聞いてくれている人達がどのように反応しているのかを客観的に見ることがあまりありませんでした。しかしこの時、参加してくれた人たちの嬉しそうな表情を見て、人から人へとつながるパワーの大きさを強く感じました。

「うちの学校にも来てほしかった。」見に来てくれていた地域の小学校の先生からの言葉でした。その言葉自体嬉しいものでしたが、さらに嬉しいことに、それが翌年実現することになったのです。JOIコーディネーターとしての活動は終わりましたが、そこでつながったものが先に続いていく結果となったという意味ですごく心に残るものとなりました。
私が特に力を入れて行ったものとして学校訪問があります。2年間を通して、多くの学校で月1度の定期訪問をさせてもらいました。子ども達にとって初めての日本との出会いを作る、との気持ちから大事にしてきた活動です。
その中で出会った一人の女の子の姿を見て、このJOIがどのように人に影響を与え、つながっていくのかが見えたことがありました。
定期訪問をしていた小学校4年生の女の子、クラスではおとなしく目立つタイプではありませんでしたが、そんな彼女が自信を持って他の友達に日本の紹介をしていたところを見る機会がありました。ガールスカウトに参加していた彼女が、あるイベントの東アジアを紹介するブースで仲間の子どもたちに折り紙を教え、日本の紹介をしていました。私の授業を飛び出してイキイキと楽しそうに仲間の子どもたちに日本の話をする彼女の姿に、私は驚いたのと同時に頼もしくもあり嬉しい気持ちでいっぱいになりました。

また、彼女のお母さんから、「家でも大人しい子で、あんなに堂々としているところが見られて本当に嬉しかったの。あなたのクラスも楽しんでいて、クラスで作った物は全て取ってあるのよ。」と後で言葉をかけてもらいました。クラスでは見ることのなかった彼女の姿とお母さんの言葉、大切にしてきた学校訪問に対してこれ以上ない自分への励ましになりました。また、このことから、JOIの活動が彼女以外にも同じような影響を与えて、色々なところで少しずつ広がっていっているのではないか、と感じるようになりました。
「つながり」これが2年間JOIコーディネーターとして活動して得たものです。出会ったすべての人とのつながり、フィンドレーという場所とのつながり、また活動をする中で、日本について学び考えるようになり、日本とのつながりも深まったと思います。オハイオの地で、アメリカと日本、人と人とのつながりを築くことができたと思います。そしてこれからは、このつながりが先に広がっていくことを心から願っています。
最後に、素晴らしい機会を与えてくださり、いつも温かく支えてくださったみなさん、本当にどうもありがとうございました。
