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第10期 コーディネーターの活動報告

大野 麻未 Asami Ohno
第10期 シンシナティ/グレーター・シンシナティ日米協会
オハイオ州
大学卒業後、教員として働く。その間、青少年育成、国際交流活動分野でボランティア活動に参加。日本のことを多くの人に知って欲しいとの思いからJOIプログラムに応募。 オハイオ州シンシナティで活動を行う。

さらなる日米の絆のために

帰国前夜の日本語・英語カンバセーションテーブル。最後にYP(ヤングプロフェッショナル)のみんなにお礼を言ってからシンシナティを発ちたい、と思っていたところ、30人以上の方が集まってくれました。派遣先であるグレーター・シンシナティ日米協会 (JASGC)のYPグループが中心となって毎月実施している会ですが、この2年の間にはコアメンバーが抜けたり、参加者が数名しかいなかったりと、苦労した時期がありました。ですから、このように大勢の方が日本語と英語で楽しく交流する場となり、感慨もひとしおでした。これもコアメンバーのローレンとキャットのおかげと感謝しています。

このカンバセーションテーブルを通じて、これまで JASGCの活動に参加したことがなかった方や、地元の大学で日本語を学んでいる学生がボランティアとして手伝ってくれるようになったり、友達の輪を広げられたという話を聞いたりすることで、日本とアメリカの草の根レベルでの交流が確実に広がっているのを実感しました。また、JASGC本体とのつながりも深まったことで、活動の認知度が高まり、双方のイベントへの参加者の範囲も広がりました。

1年目の活動を終え、JOIコーディネーターとして残りの時間でどのような活動を行っていくのか、と考えたとき目標としたのは、私の帰国後も活動や交流が継続できる「持続可能な日米交流」でした。シンシナティには日本企業が進出しており、グレーター・シンシナティ(シンシナティを中心としたオハイオ州南西部、ケンタッキー州北部、インディアナ州南 東部)には多くの日本人の方が住んでいます。また、地域の大学では日本語や日本研究も盛んです。他のJOI コーディネーターの派遣地域よりも日本の認知度は高く、また恵まれていると言えます。しかし、着任した当初は、それぞれの組織やグループが連携して何かを行う、ということはあまりありませんでした。そのため、まずは私がいろいろなところへ行ってつながりをつくる、そして、それぞれをつなげていこうと思いました。

学校訪問や図書館でのプログラムを通して地域社会に日本についてのアウトリーチを行うとともに、家族向けのイベントや、日本語補習校や岐阜―シンシナティ姉妹都市のイベントのお手伝いを通して、日本関連の各グループとの連携を高めました。

その成果が出たと思うのは、ミュージアムセンターでのアジア文化祭です。前年の日本ブースの成功を受け、今年度はより広い場所の提供を受けました。姉妹 都市協会、折り紙や碁のグループ、大学の日本クラブ、石巻プレイグラウンドプロジェクト、地域の日本人家族をはじめ、多くの方々にお手伝いいただきました。日本の旅行案内、けん玉やお箸チャレンジなどのゲーム、日本語でのネームカード作り、折り紙のワークショップなど、様々な視点から日本紹介ができました。また、今年度は子どもたちがボランティアとして参加してくれたことで、より一層活発な交流ができました。私のアウトリーチで日本に興味を持った子ども たちの来場もありました。中には半日以上折り紙テーブルに座り、ほかの子たちに教えたり、新しい折り紙に挑戦したりした子もいます。子どもたちが仲良くなる力や異文化を受け入れる力というのはすごいなぁ、と改めて認識しました。

また、2 年目は、JASGC にアウトリーチプログラムがあることが地域に広まり、1 年目に比べ学校訪問の数も増加しました。「日本人はスシだけじゃなく、ハンバーガーやピザも食べるんだね」「僕も同じゲーム持ってるよ」「地図では遠く離れた国だけど、日本とアメリカの生活にはたくさん共通点がある」「違うこともいっぱいあって、おもしろい」。子どもたちのキラキラした目や驚いた顔を見たくて、どんなプログラムで紹介したら喜んでもらえるかな、と学校訪問が楽しみでした。基本のプレゼンテーションを確立し、最後の 3 か月はほぼ毎回、JASGC のスタッフやボランティアの方に一緒に活動してもらったことで、今後もアウトリーチ活動を続けていけるようになりました。このように JASGCを中心とした日米交流が活発に行われる基盤ができたことをうれしく思います。

2年前、初めてこの地に降りたったときには、文字通りゼロからのスタートでした。日本とは勝手が違ったり、文化の違いに戸惑ったり、不安になることもありました。JASGCスタッフのカーラ・ ロマネリやキャロリン・バリックロー、ホストファミリーや友達に助けられ、一 つずつ生活を築いてきました。仕事やボランティアでお世話になったみなさん、 心の支えとなってくれた友達、乗馬やポロクラブの仲間、アウトリーチ活動で出会った人々やこどもたち。たくさんの人たちとのかけがえのない思い出のあるシンシナティは私の第二の故郷です。この2 年間で築いた絆をこれからも大切にしていきたいと思います。そして、いつかシンシナティを訪れ、日米の絆がさらに深まっているのをみるのを楽しみにして います。

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熊代 智恵 Tomoe Kumashiro
第10期 サンアントニオ/テキサス大学 サンアントニオ校 東アジアインスティチュート
テキサス州
大学卒業後、教育現場で3年間勤務後、JOIへの応募に至る。

日本を通じて人と人がつながっていくこと

「日本語を通じて、人と人とがつながってほしい」という思いから始めた日本語会話クラブの運営も、無事2年目を迎えることができました。それもこれも、サンアントニオ在住の日本人ボランティアの方々のおかげで、テキサス大学サンアントニオ校では週2回、また、他大学でも週1回会話クラブを始めることができたのです。学内の学生に限らず、他大学で日本語を学習している学生や日本に興味のある地域の方の参加者も増え、当校は「Japan Town(ジャパンタウン)」と呼ばれるようになりました。夏期休暇中の会話クラブの開催の要望も多々あり、また学期中参加することができない地域の中高生も参加できたらと思い、夏休み中にも通常通り、会話クラブを行っています。中高生や地域の人など、新たな参加者が加わり、日本語会話クラブは益々活発になってきていることと思います。

私の帰国後も引き続き、会話クラブを盛り上げてくださっているのは、日本人ボランティアの方々です。日本語のみならず、日本で現在流行っていること、若い人に人気のある物や言葉など、大学の日本語の授業では学ぶことのできない「今の日本」を共有していると同時に、ボランティアの方々自身も「もっと学びたい・知りたい」という彼らの思いに応えようと、色々なアイディアを毎回会話クラブへと、運んできてくれています。

「Savor Japan」という全4回シリーズのイベントも、国際交流基金の助成金のおかげで、実施することができました。「生と死」が大きなテーマであり、日本人がどのような思いで、死者を弔い、生きること・人が成長していく過程を祝福していくのかということを中心に、日本の文化・行事・習慣等を交えて、多くの参加者と学びあうことができました。また、大学生を中心に結成した「ソーラン節チーム」では、様々な国籍の学生たちが集まり、1年間で計4回も踊りを披露する機会に恵まれました。独特の雰囲気のあるソーラン節を地域の人々に見てもらえたと同時に、お互いをあまり知らなかった学生たちが、いつの間にか一つの日本チームとなり、たくさんの笑顔で練習している姿を見ることができたことが、何よりの宝物です。

日本語サークルも結成2年目となり、「夏祭り」を開催しました。まず、日本のお祭りには欠かせない屋台なのですが、どうやって屋台を切り盛りしてくれる人を見つけられるかが、祭り自体の実施の有無を大きく左右していた問題でもありました。そこで、一番に心に思い浮かんだのは、2年間日米協会を通じて出会ってきた人々です。大きな機材の搬入作業、準備や後片づけ等について考えると、屋台の運営を引き受けてもらうことは困難だろうと思っていました。しかし、「いいよ」「IIYO」とメンバーが笑顔で引き受けてくれた、あの瞬間のことを私は今でも忘れることができません。

日本で生活をしていたら気づくことのできなかった、人と人とのつながり、そして草の根レベルで地域の人々と共に、日本を感じていきたいという同じ思いをもった人々の協力とその優しさに、私は言葉には表すことができない、温かい気持ちで一杯でした。食べ物の屋台は大成功、そしてお祭りに欠かせないゲームの屋台も、盆踊りも大成功!!会場は、子どもから大人まで、様々な国籍の方の笑顔であふれかえっていました。

2年目の学校訪問では、日本の文化だけではなく、文化の奥にある日本人の心も感じられるよう、授業の中に色々な要素を積極的に取り入れていきました。特に依頼の多かった図工の授業での書道の紹介。クラス中が静まり返り、児童・生徒一人一人が机の上にある一枚の紙一点を見つめて、真剣に字を書く姿は、とても微笑ましい光景でもありました。今までに一度も、図工の授業で作品作りに参加したことがなかった児童が、書道の作品を書き上げたことがありました。日本の何かが、書道の何かが、児童の心を動かしたのではないかと考えると、JOIの活動は、本当に意味深いものだと感じずにはいられませんでした。

図書館、病院や地域での活動、そして日米協会での活動も含め、1年目があったからこそ、2年目はより広く深く、行うことができたと思います。特に2013年はサンアントニオ市と熊本市との姉妹都市25周年記念イベント等、大きなイベントもあり、新たな課題や試みにも挑戦することができたことは、2年目だからこその結果だと思います。どこにいても誰かに支えられているという温もりを感じながら、サンアントニオで出会う人、一人一人から受け取るパワーを素に、2年間、様々な経験をすることができました。ここでの2年間は、一瞬一瞬がとても大切なものであったことは言うまでもありません。同時に、出会った人、一人一人との何気ない世間話や日本を通じた交流そのものが、「お互いのことをもっと知りたい」と相互に学び合おうとする姿勢=人と人とのつながりを強くしていくことの原点であった、と考えています。

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鶴田 孝俊 Takatoshi Tsuruta
第10期 ヒューストン/ヒューストン日米協会
テキサス州
40年近い銀行勤務を終えた、団塊の世代の一員。アメリカと欧州に駐在経験あり。とはいえ、アメリカは少年時代に見たTVドラマ「名犬ラッシー」以来、いまだに憧れの地。アメリカの若い世代の一人ひとりに語りかけ、日本に親しんでもらおうとそれまでとはちょっぴり違う人生の冒険に取り組んできた。

ヒューストンでのアウトリーチ活動を振り返って

アメリカでの二年間のJOI活動を終えた今、一番強く思い出すのは、自分のプレゼンテーションに参加し、熱心に聞いてもらった人たちの輝いた目です。その多くは小学生から高校・大学に至る学生の皆さんを中心に、保育園児からシニア層に至るまで、テキサスに住む地元の皆さんでした。多くの場合一回限りの一時間前後のプレゼンにすぎませんでしたが、個人としての触れ合いを通して、何かしら日本に対する興味や好意を感じていただけたように思います。

プレゼンはできるだけ少人数で、20人からせいぜい50人くらいを相手にするようにしましたが、大抵は質問攻めになりましたし、わずかな時間を見つけて折り紙に割くと、間違いなく沸き立って大はしゃぎになりました。日本での学校生活や、日本の四季の美しさや季節感、あるいはお茶やお花といった日本の伝統文化など、どんなテーマにも旺盛な好奇心を見せてくれました。

この二年間は個人的にも、楽しく充実の二年でもありました。これまでほぼ40年も企業人として働き詰めでしたが、アメリカの人たちと、そして世代が異なる、企業以外の市井の人たちと交流しえたのは、言葉以上に感動的な体験でした。学校訪問以外にも、ジャパンフェスティバルや様々なイベントを共同して行いましたが、そこで出会った仲間たちとの交流も、人生の大きな1ページを作ってくれました。

活動の基本は二年目も学校訪問などのアウトリーチ活動であることに変わりはありませんでした。学期の初めに各校に網羅的にメールを出して自らを売り込みました。その後の先生との打ち合わせの中で、先生の持つすべての学年のクラスとか、場合によっては全校の生徒に十数クラスもプレゼンテーションを行うという了解に達したこともありました。

アメリカの生徒は確かに物怖じしないで反応がいいのですが、クラスによってはシャイであったり、初めての日本人のおじさんをしげしげと見つめたり、様々です。でも何かしら日本を知っていて、プレゼンをするにつれて興味を広げてくれるのが表情に現れると、これほどうれしいことはありませんでした。学校との接点が広がってくると、日本舞踊を見せてほしいとか、書道を教えてほしいとか、具体的な依頼が来るケースも増えてきました。特に学校のインターナショナルデーとか、各国文化の多様性を理解する週間とかがあると、一人では間に合いません。こんな時は日本人女性のグループや太鼓のチームなどとタイアップして、一緒に出掛けることも少なからずありました。

アウトリーチ活動はほかにも、ライブラリー、ロータリークラブなどにも及びました。アメリカのライブラリーは数も多く、様々なイベントプログラムをやっています。しかし幼児から高齢者まで幅が広く、場に合わせてのアドリブに汗を流したことが少なくありません。ロータリークラブはいつも思いもよらない質問が飛び出してきましたが、日本の少子高齢化の展望とか、日本のエネルギー政策など、大人の議論ができたのは楽しみでもありました。ほかにアルツハイマーのデイケアセンターにも数か月にわたって毎月訪問しました。

継続的なアウトリーチ活動を行ったのは大学です。日本に関心を持つ学生を中心に、みんながいろんな企画に乗ってくれました。ヒューストン市内の主だった大学とはそれぞれにパイプができ、日本語お喋り会を立ち上げたり、ある大学では連続日本映画会を行いました。ほかにも書道をやったときは、写真のように初めてでもいきなり難しい字を書いてしまう意欲と好奇心には、感心してしまいました。

ほかにビッグイベントと言えば、二日間で3万人近くの市民が参加するジャパンフェスティバルが、今年も4月に市内の日本庭園を中心に行われ、また日本語スピーチコンテストがヒューストン地区大会、テキサス州大会と2月、3月に行われました。いずれもヒューストン日米協会が中心となったイベントで、長い準備期間を経てそれらが終わった時の感激は言葉に言い表わせません。特にジャパンフェスティバルは、アジア系の住民が数十万人と言われる中で3千人に満たない日本人コミュニティ挙げてのイベントであり、多くの市民に親しまれてきたことは、大きな喜びでした。

二年目にはヒューストン日米協会が久々に資金調達を目的としたゲーラ・パーティを行い、その中で着物ショウとアジア各国の民族衣装のショウを担当したのも、忘れられないイベントでした。 日本の存在感を、ヒューストンの主だった人たちにアピールできた大きな機会でもありました。

いま手元に、訪問した学校の小学生が後日送ってくれた手作りのサンキューカードや、間違いがそのままのスペルで書いた感想文などがあります。これらは2年間の貴重な思い出であり、JOIの修了証書ではないかと思います。最後に、これまでにアメリカで出会ったすべての人たちと、今年で12年目になるJOIプログラムを連綿と実施してこられた国際交流基金日米センターとローラシアン協会に感謝します。

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星野 麻衣 Mai Hoshino
第10期 オマハ/ネブラスカ大学 オマハ校 国際プログラム
ネブラスカ州
大学時代に留学中、国際交流に関心を持ちJOIへの応募を決意。

「ありがとう」が私の宝になりました

ネブラスカ州オマハ市のネブラスカ大学で過ごした2年間は、気づけばあっという間に過ぎてしまうものでした。2年前、初めて派遣先を聞いたときは聞いたこともない州に最初は戸惑いました。インターネットなどでネブラスカ州の情報を仕入れ、そのうちアメリカの中西部に位置し、穀物や畜産物を提供する農業州として知られていることを知りました。

派遣されてからの1年間は様々な事に慣れることで精いっぱいでしたが、そんな生活も2 年目を迎えると、気持ちに余裕ができて、多くのことを学んだり、経験したり、楽しんだりすることが出来ました。

そんな2年目の生活は、姉妹都市である静岡との交流から始まりました。1965年から姉妹都市国流を続けているオマハ市と静岡市。とても深い絆で結ばれた両市は、現在も交流を深め、静岡市からも毎年多くの学生がオマハ市にやってきます。また、学生だけではなく、静岡の学校で教師をしている先生方が今年の夏はいらっしゃいました。1 週間ほどの滞在でしたが、彼らが不自由なく生活できるようサポートし、一緒に多くの小学校・中学校・高校を巡りました。

昨年同様今年も開催された日本祭。飲食物を販売したり、折り紙を教えたり、習字を教えたりと様々な日本文化を体験できる貴重なお祭りです。子供から大人まで、多くの方が来場し、アメリカ人だけでなく、オマハに住む日本人も、お互いの交流を楽しめる日となりました。また、大勢の地元の方々がボランティアとして参加・協力をしてくださいました。多くの人々が協力しあうことで計り知れない大きな力が生まれます。さらにボラ ンティア同士の絆も深まりとても有意義なものとなりました。

今年も多くの学校でプレゼンテーションをする機会がありました。その中でも特に人気だったのが、やはり習字や折り紙です。どの学生も実際に作業を始めると、皆集中して習字を書き、折り紙を折り始めていました。何よりも、先生たちが学生以上に真剣に取り組み、誰よりも異文化を知りたいという熱意にあふれていました。中には、地元のコミュニティの方々がプレゼンをする際にボランティアとして協力をしてくださいました。みんなと協力して行うことによって、いつも以上に参加している全員が楽しめるものとなりました。

大学でもプレゼンテーションをさせてもらえる機会を頂き、教授が希望する日本のトピックについて話しました。そんな大学でのプレゼンの機会を通じて知り合った教授と、日本研究の知識をさらに深められるよう訪日研修を企画しました。日本でどんな授業を聴講できたら学生は日本に関する知識を増やせるか、どんなことを体験出来たら日本文化を理解してもらえるか等、様々な事を含めて日程等を調整しました。調整をすすめる上で、様々なトラブルもありましたが無事にスタディーツアーを開催できました。今回参加した9名ともにみな初めての日本滞在で、多くのことを学んだと思います。静岡姉妹都市協会のご協力のおかげで、学生たちは数日ではありましたが、静岡市でホームステイを体験することもできました。さらに静岡大学などでは、静大生と交流する機会もあり、日米の両学生が絆を深めることもできたと思います。

中西部に位置するオマハ市というとてものどかで平和な地域で、たくさんの友人を作ることもできました。2年間の滞在中は大学寮に住んでいましたがルームメイトはカザフスタン人とアメリカ人。 特に、日本にいたらなかなか会う機会がないような同世代のカザフスタン人と、2 年間暮らすことができたことも、私にとって非常に良い経験となりました。お互い自分の国の料理を作って一緒に食べたり、言葉を教えあったり、日本にいたらできないような暮らしをし、楽しく過ごせました。

さらに、2年間の生活を通じて知り合った家庭で家族同様の付き合いをしてもらえたことも、私にとっては非常に有意義な事でした。その方からは、私自身が多くのことを学ばせていただきました。口癖のように、「困ったときはお互い様よ」といつも言って、どんな時も私は彼女と彼女の優しい旦那様、娘さんに助けて頂き、家族同然のような付き合いをさせていただきました。ハロウィン、サンクスギビング、クリスマスなど、アメリカの家庭で行うようなアメリカの文化を体験できたことは今でも忘れられません。私が異なるアメリカの文化を学んで楽しめたように、アメリカで日本文化を学んでいただいた方々に、同じような楽しさを味わってもらえたのではと思うと、非常にうれしくなります。また、私も彼女のように、「困ったときはお互い様」という言葉を自然に使えることが出来ればと思います。

活動を終えた現在は、私の活動と生活を支えてくださった多数の方々への感謝の気持ちでいっぱいです。2年間、多くの人から「ありがとう」と言ってもらえたことは、私の宝になりました。そして、このような貴重な機会を与えてくださった国際交流基金日米センターとローラシ アン協会、ネブラスカ大学、オマハ姉妹 都市協会、さらにオマハ市で出会ったす べての関係者にこの場を借りて、御礼を申し上げ、私の2年目の体験記を締めくくりたいと思います。本当にありがとうございました。

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松岡 愛美 Manami Matsuoka
第10期 スパルタンバーグ/ウォフォード大学
サウスカロライナ州
オーストラリア留学を機に、海外で働くことに興味を持つ。大学卒業後、日本語教師養成講座を受講。タイのタマサート大学や日系企業で日本語講師としての経験を積む。帰国後、日米の架け橋になりたいと思い、JOIに応募。

美しい自然と人々の眩しい笑顔に包まれた2年間

JOIの活動は、風のようにあっという間に過ぎていきました。今でもスパルタンバーグに到着し、緊張と期待で胸がいっぱいになった時のことを鮮明に思い出します。

2年間の活動は、学校や地域コミュニティ訪問、留学生への学校訪問指導などアウトリーチを中心としたものから、日本食や映画会、日本世界遺産パネル展示会、三味線コンサート等の日本イベントの主催、地域のインターナショナルイベント参加や派遣先のウォフォード大学の日本研修旅行計画や引率など、多岐に渡りました。2年目はサイト訪問も続けながら、より多くの人々にアウトリーチするため、イベント中心に活動していきました。その中でも特に思い出深い二つの活動を紹介します。

一つ目の活動は、スパルタンバーグで毎年10月に開催されるSpartanburg International Festivalでの日本ブース出展です。町のイベントの中でも特に大きなお祭りで、スパルタンバーグの総人口約3万7千人の内、毎年約1万人の人々が訪れます。このお祭りに日本ブースを出展するというのが、活動当初からスーパーバイザーと掲げてきた大きな目標の一つでした。スパルタンバーグ在住の日本人の方々だけではなく、隣町グリーンビルの日本人の方々にもご協力いただき、当日は日本、合気道、弓道の計3ブースを出展しました。

日本ブースでは日本の工芸品の展示、おりがみコーナー、そして東北地方に向けてのメッセージコーナーを設けました。特におりがみコーナーは、急遽新たなテーブルを設置しなければならない程大盛況でした。ブースの他にメインステージで合気道と弓道デモンストレーション、また観客の方との距離が近いステージで、盆踊りを披露しました。盆踊りパフォーマンスでは炭坑節のレッスンを行い、観客の方々にも踊りの輪に加わっていただきました。

スーパーバイザーには「同時に様々な計画を立て、実行する意志に感銘を受けたわ」と褒めていただきましたが、全てはご協力くださった皆様のご支援の賜物です。地元紙にも日本の参加を掲載していただき、日本コミュニティがすぐ近くに存在し、地元の方々との交流を望んでいることを伝えられたと思います。非常に大きなお祭りですが、「人と人との交流第一」をモットーに、地域の方々と日本の方々が直接交流できた良いイベントになったと思います。今後も日本人コミュニティの皆様に活動を続けていただける予定です。

二つ目の活動はJapan Interim Tripです。ウォフォード大学では、毎年1月にInterim という通常の勉学ではなく、体験型学習を中心とする学期が設けられています。その中でも Interim Tripは人気があり、毎年多くの学生が教授と共に海外研修へ出掛けています。合気道Interimからお世話になっている教授と再タッグを組み、出発の1年前から日本研修旅行の計画を始めました。計11名の学生が参加することになり、出発1週間前からサバイバル日本語やマナー講座を行いました。

東京、名古屋、京都、広島への2週間の旅は、ただの観光では経験のできない、人と人との触れ合いに重点をおいた特別な旅になるよう心がけました。中でもホームステイは大好評で、皆今でもホストファミリーと連絡を取り合う程の素晴らしい関係を築いていました。初めは「ホストファミリーに失礼にならないようにしなくては」と緊張したり、言葉の壁でコミュニケーションが取れるのか心配したりしていましたが、皆アメリカの良さを伝え、日本とアメリカ友好の懸け橋となってくれました。大雪に見舞われるハプニングもありましたが、生涯忘れることのない素晴らしい時を過ごすことができたと思います。この研修では、旅程作成からホテル・航空券予約、ツアーやアクティビティの設定、会計、ツアーコンダクター、通訳まで全て担当しました。計画当初から研修終了まで平坦な道ではありませんでしたが、非常にやりがいのある、貴重な体験をさせていただきました。

JOIの日米草の根活動の初めから終わりまで、サウスカロライナにいらっしゃる人々、そして国際交流基金及びローラシアン協会の皆様の温かなサポートに支えていただきました。JOIプログラムの素晴らしい点は、日本紹介を通して、日本を身近に感じてもらえるよう活動するだけではなく、コーディネーター自身がアメリカの人々に囲まれ、文化や慣習を学び、体験できることだと思います。この2年間の経験と出会えた方々は生涯の宝物です。今度は日本であまり知られていないサウスカロライナについて、日本の方々に紹介し、少しでも恩返しができたらと思います。

JOIコーディネーターとしてスパルタンバーグで活動することができたのは、皆様のお陰です。コーディネーターの任期は終了しましたが、引き続き日本とアメリカの友好関係のために活動を続けていきたいと思います。アメリカと日本の方々の交流の輪が広がり、日米の相互理解がより深まるよう期待しています。

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山田 梓 Azusa Yamada
第10期 ハンティントン/マーシャル大学
ウェストバージニア州
ニュージーランドの高校を卒業後、日本の大学に進学。 法律と国際関係論を勉強し、卒業後は民間企業に就職したが、 国際貢献への夢が諦めきれずJOIへの応募を決意。

「わたし」と「あなた」と「世界」の距離を縮める2年間

JOIコーディネーターとしてアメリカ・ウエストバージニア州で私が過ごした時間は、日本では得がたく、私の人生に大きな意味のある2年間となりました。米国の中でも決して大きな都市ではないハンティントンには、小さな街のよさがありました。街の人一人一人の顔が見えて、声が聞こえる距離感は、大都市にはない魅力です。イベントの翌日に、参加者の方とばったりとスーパーマーケットで会って、そのまま立ち話を30分してみたり、日本語教室の参加者が実は友人の親戚だったり。人との距離が近く、笑顔があふれるそんな素敵な環境で、2年間活動をさせていただけたことに誇りを感じています。

私の2年目の活動の目標は、1年目に築いた国際交流の土台をさらに強い絆に変えていくことでした。そのために私が常に意識していたことは「自分と相手と世界の距離を縮めること」でした。「日本から来ました」というと、多くの人、特に子どもたちが「遠くから来たんだね」と、母国を離れた私を気遣ってくれました。しかし、実際飛行機を使えば日本からアメリカは13時間ほどで着きますし、インターネットや情報テクノロジーが発達した今、それほど距離を感じることもありません。何より、彼らが思っている「日本」よりもずっと、日本には「アメリカ」があります。食べ物、車、ファッション、ドラマだって入ってきています。そのように世界をまだまだ「遠い」存在だと思わず「身近にあるもの」だと思ってもらうことが目標でした。

2年目の中でも、強く印象に残っている活動がふたつあります。一つは、夏休みに日本語イマージョンキャンプにメインのインストラクターとして携わらせていただいたことです。約90人以上の参加者の中で、日本語が話せる子どもはほんの数人という状況の中、全てが日本語で行われました。はじめは日本語ばかりの「異文化」の雰囲気に適応できず、泣いてしまった子どもたちも、最終日にはすっかり笑顔で、帰り際には「来年も絶対に参加する!」との嬉しい言葉を残してくれました。朝登校して、みんなでラジオ体操をして、日本語の授業を受けて、お昼ご飯も日本食、休み時間の遊びも日本の遊び・・・大人だって尻込みするような状況で、子どもたちは生の異文化をその身体全体で感じてくれたことだと思います。また、主催者側の私たちにとっても、言葉の壁を軽く乗り越え、異文化を目一杯楽しむ子どもたちを見ることで、私たちの目標とする「異文化交流」が理屈や、教科書上の勉強ではなく、私たちの異文化を楽しむ心一つで進められることだと実感させられるキャンプでした。

もうひとつ、この2年間で一番大きな活動は「絆プロジェクト」でした。東日本大震災からの復興のため、青少年交流を通じて、日本再生に関する外国の理解を推進することを目的として立ち上げられたこのプロジェクトに、アメリカ側として日本語を教える地元の高校2校の引率者として参加しました。23人のアメリカ人高校生と日本に約2週間滞在し、テレビやインターネットではなく、その目で見る本物の日本を体験してきました。その中でも特に、被災地訪問では実際に震災を体験した皆さんとふれあい、その生活を見ることで、彼らの「日本」への接し方が変わったと思います。「震災=悲しい」というイメージばかりが先行していた出発前とは違い、その悲しみを乗り越えて笑顔で頑張るその姿を見て、日本の復興を願い、その手伝いをしていきたいと参加者の高校生が言っていました。23人中22人が生まれて初めてパスポートを手にして、皆と結束して飛び出した初めての日本。彼らが見た世界が「遠い」ものなのか「近い」ものなのかは分かりません。しかし、ホストファミリーや、日本からウエストバージニア州を訪問した日本人高校生と現在も続く交流を見ると、このプロジェクトを通して彼らは、世界への第一歩を踏み出したのだと実感しています。

2年間の活動を通して絶えず「ありがとう」の言葉を皆さんからいただきました。そして、その言葉を原動力として私もここまで頑張ってくることができたのだと、任期を終えてしみじみと感じています。現在私は、大学の専攻とこの活動での経験を活かして「市民協働による国際的なまちづくり」の実現を目標にしています。ウエストバージニア州を離れ、今後活動の場は変わってしまいますが、この目標の実現によって、きっと世界がもっと身近に感じられ、いつかまた私とウエストバージニア州が繋がる日も来ると思っています。

最後に、私に、ウエストバージニア州でJOIコーディネーターとして働くチャンスを与え、温かいご支援をくださった国際交流基金、ローラシアン協会、マーシャル大学、そして、この活動を通して出会えた全ての方にこの場を借りて心より感謝申し上げます。

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