コーディネーターリストCoordinator List
第13期 コーディネーターの活動報告
ミシシッピ州でのアウトリーチを終えて
JOI活動2年目は2015年8月から始まり、1年目より更に速く時間が流れてゆきました。
2年目の前半は大学キャンパス内での活動が多くありました。建築、アート、ファッション、国際農業教育などの学科や就職課スタッフ対象のアウトリーチは、テーマが日本の茶室と庭園、日本の家紋、浮世絵、日本のコミュニケーションスタイルなどで、私自身にとっても大変勉強になりました。これらの学科の学生が授業内での私の話に興味をもち、茶道や書道のワークショップにも参加してくれたことは大変嬉しいことでした。
後半は地域へのアウトリーチを広く多く行いました。特にミシシッピ・ジオ・アライアンスの先生方との協働でナショナル・ジオ・グラフィックのアジア巨大地図とともにミシシッピ全域のK-12スクールをほぼ1ヶ月にわたり訪問し、アジアの中の日本について話をしてきました。生徒たちは日本の子どもたちや学校について、興味いっぱいの様子で、すごく違うこともあれば似ていることもあるとわかったことによって、より日本への興味や親近感を抱いてくれました。

また、大学のエクステンション・サービスのテレビ会議を通じてデモンストレーションを行ったお陰で、エクステンション・エージェントからアウトリーチの依頼が多くあり、活動地域が広がったことと、新しく風呂敷や日本食のワークショップを行うことができたことは大変画期的であり、嬉しいことでした。
2年間生活している間に生まれ育った地域の友人たちとの信頼感や敬愛しあう心はかけがえのないものです。このような関係を築いたからこそ、可能になった活動もありました。戦後間もない1951年に、ミシシッピ州と東京の小学校が児童画の交換を通して交流を持ったということを友人から学びました。そして、絵画を保管しているミシシッピ・デルタ博物館を訪れ、当時送られた絵画を確認し、今後の交流を企画することによって、過去と現在、そして未来を結ぶ活動になりました。日本でもアメリカでも子どもたちに友情と平和の尊さを教えようとしていた教育者たちがいたことを知り、大変胸が熱くなりました。日本の新聞社の協力を得てこれらの絵画の里帰りができないか現在思案中で、JOIの任期を終えても、今後ミシシッピと日本の架け橋として絵画の交流の実現を図りたいと思っています。


日本を紹介する目的で派遣された期間に、図らずもアメリカの人々も同じように平和を希求し、平和教育の大切さを教えている学校があることを日本に紹介することができたもう一つの活動があります。それは小学校で行われた「貞子と千羽のおり鶴」というミュージカルへのアドバイスと日本のメディアへの取材呼びかけでした。ミュージカルは英語と日本語の台詞のみならず、伝統的な日本の遊びや歌が盛り込まれていました。出演した子供たちは日本の原爆の歴史を学び、どこの国でも平和を願わない人はいないことを学びました。このような取り組みを是非日本にも伝えたいと思い、日本の新聞社の記者が取材にニューヨークから来てくれ、記事は日本の新聞に掲載されました。バラク・オバマ大統領がアメリカの大統領として初めてヒロシマを訪れるタイミングとも合い、生徒たちはとてもわくわくし、すばらしい公演を披露してくれました。ヒロシマでのオバマ大統領がどんなスピーチをしたのか知りたいと話してくれた生徒がいて生徒たちの意識の高まりに感激しました。

このように、2年目の活動はより広く、そして深く日本とアメリカの人々を結びつける活動でした。そして私の滞在はミシシッピ州立大学の教員、コミュニティの友人たち、そして、日本の友人たちのサポートがあり、完了することができました。心から感謝しています。
恵みの2年間
2年目が始り、新たなアウトリーチ先を開拓するため、Eメールや電話のみに頼らず、実際に学校へ出向きチラシなどを手渡したり、大学近辺に留まることなく、車で1〜2時間かかる遠方の学校や図書館にも何度も通うようになりました。その遠方アウトリーチの中で特に思い出に残っているのは、車で約7時間半かけて行ったミシガンの北半島にあるマーケット市での活動です。マーケット市は滋賀県の東近江市と姉妹都市関係にあり、その深い友好関係で地元での日本の地名度が高く、姉妹都市関係のイベントでも人々の関心を集める、そんな地域です。大学のあるイーストランシング市からだいぶ離れていたため、5日間の滞在計画を立て、地元の学校とアートスタジオを訪問しました。この学校訪問では3日間に渡り、学内全18クラスをまわり、それぞれ学年に合わせた折り紙や書道のプログラムを行いました。

また、アートスタジオでは親日家のオーナーの協力で、私の茶道プログラムの後、参加者がお茶碗サイズのボウルに絵付けをするという体験型のコラボレーション・プログラムが実現しました。このオーナーはもう何十年も前にマーケット市からの使節団とし滋賀県に行った際、日本の温かさや日本文化そのものに大変感動したという経緯があり、今は最近購入した別荘で、日本のバスタブに入浴剤を入れてお風呂に入るのがとても楽しみだと話してくれました。このようにたった一度日本に行った経験から、何十年先までもこれほど日本を好きでいてくれる人がいるということにとても感動しました。このことを通して、私がマーケット市で出会った200人以上の人々の中に、どんな形でも、私のプログラムの中から何かが残ることをより強く願うようになりました。
2年目に行った大きなプロジェクトの一つとして、ユネスコに登録された日本の世界遺産写真展があります。これはミシガンに派遣された当初からずっと実現させたいと思っていたのですが、実現するまでに時間がかかった背景には、会場探しの難しさがありました。ある程度の展示スペースがあり、一般の人々が気軽に足を運ぶことができ、なおかつセキュリティも万全の会場を探すことは容易ではなく、大学内の美術館も2年先まで予約でいっぱいという状況でした。しかし州都ランシングの市長に直々にお話をする機会が与えられ、直談判の結果、快く市庁舎の広大なロビーで1ヶ月間の写真展を開催させていただけることになりました。写真展は大成功を収め、また多くの一般市民の方に向けた活動ができたことや滋賀県との友好関係を今一度人々に思い出してもらう機会にもなったことから、大変意義のあるイベントとなりました。

最後に、JOIプログラムの2年間で最も困難だったことについてお話しします。それは、自分が一番自信を持って行えるプログラムと、人々が喜んでくれるプログラムは必ずしも一致しないということです。先にマーケット市での茶道プログラムについて紹介しましたが、実は、はじめ私が一番依頼されたくなかったのはこの茶道でした。理由は単純に、私が今まで一度も茶道に触れたことがなかったからです。1年目はなんとか避けきた茶道でしたが、2年目になると不思議なほど依頼が増え始め、もともと派遣先にあった茶道セットをぜひ活用して欲しいというスーパーバイサーの要望もあったため、本格的にプログラム作りをすることにしました。実際やってみるとやれないことはありませんでしたが、やはりしばらくの間はしっくりこない思いをいつも抱えていました。しかし慣れてきた頃、人々が喜んでお茶を点てている様子を見ていた時に、100%を伝えられなくても、たとえそれが 50%、60%の知識と技術でも、自信がないからやらない、つまり0%よりもよっぽどいいじゃないか、と気がついたのです。それからは限られた時間と資材を活用し、また様々な年齢層にあわせたプログラムにしていけるかということに心を注ぐことができるようになりました。

2年間のJOIコーディネーターとしての活動を終えて今思うのは、本当に色々な活動をしたなぁということです。周りの人から「そんなこともやっているんだね!」と言われることがよくありました。というのも、私の働いていた留学センターの建物では私が唯一の日本人であったために、日本に関することはどんなことも私に依頼が来たからです。誤解のないように言うと、このような多くの依頼は私にとって感謝すべきことでした。普通ならできない色々な仕事に挑戦できた貴重な2年間だったからです。最後になりましたが、この素晴らしい機会を与えてくださり、支えて下さった国際交流基金の皆様、ローラシアン協会、そしてミシガン州立大学に本当に感謝の思いでいっぱいです。これからもこのJOIプログラムが発展し、将来日本とアメリカを繋ぐ多くの人々が成長するきっかけとなっていくことを心から願っています。
日本と世界、人と人とをつなぐ
ゆるキャラでつながる
2年間を通して一番印象に残っている活動は、「ゆるキャラ」の紹介です。ゆるキャラの良さは、一目でその土地の名産や歴史などが分かることです。ゆるキャラ紹介のクラスでは、生徒たちと一緒に地元のゆるキャラを作りました。インディアナ州のチェスタートンを訪ねた時は、生徒の作品からその土地は、砂丘や鉄鋼業が有名であることを知り、ブルーミントンを訪ねた時は、石灰岩が有名であることを知りました。インディアナについて知識が少ない私に、生徒たちが目を輝かせながら、その土地の名産を教えてくれた顔が今でも思い出されます。ゆるキャラを通して、日本の文化を紹介し、同時に私自身がインディアナ州につ いて深く知ることができた瞬間でした。

また、年に一度インディアナポリスで開催されるインターナショナル・フェスティバ ルでは、巨大な日本のゆるキャラ都道府県マップを作成し、参加者の好きなゆるキャラに一票を投じてもらうというブースを作りました。この年は約7,500人が参加した大きなイベントとなりました。ある家族がマップを眺め、「この県は、何が有名なのかな」と一生懸命考えていたので、そこから会話が始まったり、日本に行ったことがある方は「千葉に住んでいたから千葉に一票」と嬉しそうに投票し、千葉の思い出話が始まったり…ゆるキャラを通して、会話が始まり、またここでも多くのつながりが生まれました。そして、ゆるキャラが大好きな私もインディア州のゆるキャラを作成し、展示させていただきました。その名も 「Hoosier Nekko(フージャー・ネコ)」。フージャーは、インディアナ州民のニックネームです。体がインディアナ州の形をしており、手は、インディアナ名産のとうもろこしを使用したポップコーン、口には地元のプロフットボールチーム、コルツのマークが入っています。このHoosier Nekko がいつかインディアナ州のオフィシャルゆるキャラとなり、インディアナと日本の絆をさらに深めてくれることを願っています。

SAKURA でつながる
また、2年目にはインディアナ日米協会の活動で、桜並木道を作るというプロジェクトが行われました。この桜は、1912年に日本より米国ワシントンD.C.に桜が寄贈されてから100 周年を記念し、日本から50本の桜の苗木を寄贈していただいたものです。数年間の育苗期間を経て、今年ようやく植樹を迎えることができました。インディアナ日米協会にとって初めての試みでしたが、食事やボランティア、エンターテイメントの手配や招待状の送付など様々な業務を担当し、当日は地元の方々約130名をお迎えし、インディアナポリスのダウンタウンに無事に桜を植樹することができました。穴を掘るところからの作業でとても力 のいる作業でしたが、日本人、アメリカ人、多くのインディアナ州民の皆さんと共に植樹ができた桜はとても特別なものとなりました。また春になり、多くの方々がこの桜の木の下に集い、お花見を楽しむのだと思うと、この桜が人と人を、またアメリカと日本をつないでくれているのだと心が温かくなります。

人のつながりが生み出すパワー
日本に帰国の5 日前、インディアナ日米協会が私のために送別会を企画してくれました。80名程の方がお仕事等あるにも関わらず、夕方私のために集ってくださいました。そこで多くの方から頂いたのは、「ちあきさんがいたから」という言葉でした。私がいたからつながることのできた人や場所があることを教えて下さいました。人と人が出会い、つながることで、そこには「仲間」という新しいパワーが生み出されます。この 2 年間で私には多くの様々な国籍の素晴らしい仲間ができました。その仲間である皆さんが、それぞれの場で、それぞれのスタイルで、日本を楽しみ、日本について学び続け、日本について伝えていってほしいと願っています。
最後になりましたが、私の車がこの2年間で走行した距離は30,000マイルを超え、地球一周以上の距離に相当します。インディアナ州に広がるとうもろこし畑の中、車を走らせ、色々な町を訪れ、日本文化の紹介をし、アメリカ文化を学んだ2年間。アウトリーチ活動を通して日本とアメリカをつなぎ、また自分自身がアメリカ文化とつなげられたそんな 2 年間であったと思います。この2年間インディアナでの生活を支えて下さったインディアナ日米協会の皆様、国際交流基金、ローラシアン協会のスタッフの皆様に心から感謝申し上げます。この経験を活かして、今後も日本と世界をつなぐ、人と人とをつなぐお仕事に励んでいきたいと願っています。

WE WANNA VISIT JAPAN
2年間のJOIコーディネーターとしてのアウトリーチ活動もあっと言う間に終わってしまい、今考えると本当に充実した悔いのない時を過ごせたと感じています。始めはアメリカでの運転の仕方もわからず、ホストファミリーの家にもなかなか入居できず、不安に思うことありましたが、今思えば、どれも懐かしい思い出です。自然いっぱいのケンタッキー州で日本文化を広めるために駆け巡った2年間。その中で特に印象に残った活動を3つ紹介したいと思います。
一つ目は、2016年2月から1学期間教えたOLLIでの「EXPLORE JAPAN!」というクラスです。OLLIとはOsher Lifelong Learning Instituteの略で、ケンタッキー州立大学が主にリタイアした年配の方を対象に様々な授業を提供しているものです。毎学期100を越える色々なコースの履修が可能となっております。その中で、私の授業では毎週、様々な日本文化に焦点を当てていきました。中でも、着物・浴衣について学んだ後に実際に試着をしてもらう授業や、日本食について学んだ後に全員でおにぎりと味噌汁を作って試食する授業はとても好評でした。


また、私自身があまり得意ではない分野では、ゲストスピーカーを招いてお話しをしていただいたこともありました。特に日本庭園に詳しい現地の日本人のご婦人の方を招いた回は、日本庭園の歴史や、「侘び寂び」といった価値観までお話しがあったので、聞き手である履修者の中には、より掘り下げた質問をした方も多かったです。このコースの最終回では、レキシントン市内の日本料理店に「フィールドトリップ(遠足)」と称し、ランチを食べに行きました。その際、「1学期間、毎週、様々な日本文化が学べて、とても楽しかった!」「息子がカリフォルニアで日本人と結婚したから、ここで習った日本語を使ってみるよ!」「この数ヶ月で日本についての知識がとても増えた。ぜひ旅行したい!」などと言った嬉しい言葉をたくさん頂けました。こうやって自分の授業により日本のことを伝えられてだけでなく、楽しい有意義な時間を過ごしていただけたと聞くと、とても嬉しかったです。また、その後のJOIの仕事に対するモチベーションをさらに上げることもできました。
二つ目の印象に残った活動は、市内の公立図書館にて日本語の初級クラスを教えたことです。3か月間、「あいうえお」から始まり簡単な挨拶、初歩的な文法を教えました。生徒の大半は社会人で、仕事で疲れた後でも毎週欠かさず授業に来て、宿題も欠かさずやってきてくれるような真面目な生徒が多く、私もとてもやり甲斐を感じました。中には、数か月後に日本への旅行を控えた人や、学生時代に日本語を履修していて復習のために来ている人、また日本のアニメが好きで日本語を学びたいと思っている人など、クラスのメンバーも多岐に渡っていたので、始めは授業内容の作成に苦戦しました。しかし、最終的には歌やカード(かるた)ゲーム、ロールプレイングを取り入れることで、大人も楽しみながら勉強ができることがわかり、積極的に生徒の方々も参加できる形で授業を行っていきました。生徒の方々からは「日本語と一緒に日本の文化や慣習など交えてもらえたことが、とても面白かった」や「次の日本への旅行でできるだけ習った日本語を使ってみる!」など、といったコメントを頂けたので、少しでも役に立てたと思うと、とてもやり甲斐を感じました。どうしても語学の勉強というのは、継続をしないと上達するのは難しいのですが、この図書館での授業をきっかけに、今後も日本語、日本文化に触れ続けてほしいです。

三つ目に紹介したい活動は地域へのアウトリーチで、K-12(日本で言う幼稚園年長〜高校)の学校への訪問や、図書館でのイベントです。特に2年目には小学校にて JAPANクラブという放課後のクラブを担当することができ、毎週会う生徒との関係を深めることができました。一度、風邪をひき休んだことがあったのですが、次の週にはクラブの生徒達がこぞって私の体調を心配してくれていたことを知り、心温まりました。また、学期末のクラブ最終日には「このクラブがなくなるのは寂しい。来週も来ても良いか?」とハグをしに来てくれた低学年の子供がいたり、「日本に絶対旅行に行く!」と宣言した子もいて、将来を担う若い世代に少しでも異文化の面白さを伝えることが出来たのだと実感しました。

最後にプライベートも含めた、この2年間の感想を述べたいと思います。ケンタッキーでのこの2年間は、職場でもプライベートでも本当に良い人間関係に恵まれ、感謝してもしきれない日々を過ごしました。この2年間の経験が無ければ今の私が無いと言っても過言ではないほど、JOIに応募して本当に良かったと思っております。有意義な2年間を過ごすことができたケンタッキー州は、今後も間違いなく第二の故郷として私の「帰省先」になると思います。
たくさんの出会いに感謝
遂に2年間を振り返る時を迎えました。2年目は1年目を遥かに上回る充実した一年間でした。
1年目は当地で自分に何ができるのかを模索し、それに沿ったネットワーク作りに注力していたように思います。籍を置いているクレイトン大学での授業に加えて、小中学校、高校、大学の訪問、様々な文化イベントへの参加、姉妹都市関連イベントへの参加や支援等々何でも積極的に参加し、関係者との交流を深めました。
2年目も同様に幅広く活動しましたが、特にこの1年間は高校、大学からの訪問要請が多くなりました。また、2015年はオマハ市と静岡市の姉妹都市50周年に当たり、様々な記念イベントが企画されたことからそれらに深く関わることになりました。これらを通じて地元各界の多くの方々との親交の機会を得ました。

クレイトン大学での活動は一層本格化し、所属するアジア政治学科での授業の他、法学部、経済学部の授業にも度々招かれ、日本の政治、経済、歴史、文化等々について講義する機会を得ました。当初は授業時間の一部を割いて日本について「話しをする」機会を頂きましたが、2年目は授業時間をフルに使って「講義をする」ようになり講義テーマも一任されるようになりました。また、クレイトン大学主催の公開シンポジウムのパネリストにも招かれました。
ネブラスカ州内の他の大学にも招かれて、同様に「講義をする」機会がありました。学生達は日常的に様々な日本製品や文化に接しているものの日本の歴史と現状、日米関係など日本に対する理解は著しく乏しい状況です。広島、長崎は聞いたことがあってもそこで留まっています。日本ではアメリカに関する情報が溢れていますが、当地メディアは日本について殆ど伝えていないので依然として双方の認識には大きなギャップがあります。戦後の焼け野原からどうして高い倫理観を備えた経済大国、平和国家、そしてアメリカの友好国になり得たのか。そんな日本/日本人の有り様を度々話しました。今後も日本/日本人ファンを広げて行くことに貢献できればと思っています。また、多くの日本人が自らの言葉で率直に対話し交流することの重要性を改めて感じています。
オマハに来る前は、姉妹都市についての知識もなく関心もありませんでした。
オマハ市は世界6カ国の都市と姉妹都市関係を持っていますが、その中でも静岡市とは50年間に亘って極めて親密な関係を継続しています。両市の方々は手弁当でその関係の向上にご尽力されています。
この2年間の大きな収穫の一つは、こうした活動に関わることによって、真の「日米草の根交流」を体験できたことです。2015年夏以降の一年間で次の3つの大きなイベントが行われ、全てのイベントの企画、遂行に一貫して関わりました。いずれのイベントも両市の多くの方々がご尽力され、大成功を収めました。ひとえにそうした皆様の善意の賜物と思っています。
1. オマハ市で開催されたオマハ・シンフォニー管弦楽団と静岡フィルハーモニー管弦楽団とのジョイント・コンサート
2. オマハ市民の静岡市訪問
3. オマハ市での「駿府茶屋(数寄屋造り の茶室)」の建立・寄贈
こうした大きなイベントを作り上げていく上ではオマハ市、静岡市の皆様の円滑な意思疎通が最も重要なポイントでした。その重要な役割を担って、両市の信頼関係と絆の一層の強化にお役に立てたことを大変嬉しく思っています。


こうした活動が評価されて、クレイトン大学からは「 Distinguished Recognition Award」、オマハ市姉妹都市協会からは「Spirit of OSCA Award」を頂戴しました。
熊本での大地震に際しては、いち早くクレイトン大学内で募金活動を行い、善意の募金をシカゴ総領事館を通じてお送りしました。その際に地元テレビ局のインタビューを受け、その模様がテレビに流れたことは貴重な経験でした。
幅広く見聞を広めることもできました。2年間の締め括りにネブラスカ州内を車で回る機会を得て、5日間で1,500マイル以上(約2,500km)を走破しました。広大なネブラスカ州内を東西南北に移動する中でアメリカ開拓時代の名残を至る所で見ることができました。


7〜10マイル毎に現れる小さな町は、その昔馬車で移動する人達の休憩所や宿場町だったとのこと。今もレンガ作りの古い建物が残っていて、その当時の町並みが偲ばれます。現在も受け継がれている町の入り口には、町の名前とその人口を記した標識が設置されていて、人口100人以下の小さな町も見られました。コーンや大豆の畑、放牧地が延々と続く光景はアメリカの広大な大自然を実感し、果てしなく広がる大空は日本では絶対に見ることができないでしょう。こうした雄大な自然は気持ちも豊かにしアメリカン・ドリームを抱かせます。また、ヨーロッパ諸国からの多くの開拓移民と先住民インディアンとの間の苦い歴史にも思いを馳せました。
最後に、この様に見聞を広め、それまでの人生では巡り会う機会もなかった多くの方々との出会いを与えていただき、深く感謝しています。有り難うございました。