コーディネーターリストCoordinator List
第16期 コーディネーターの活動報告
Thank you, San Antonio!
新卒で入社した会社を辞め、バタバタと準備を進めた2017年の夏をとても懐かしく思います。JOI16期生の同期とは成田空港で待ち合わせをしました。保安検査場前まで見送りに来てくれた母とお別れするときは、目の前に広がる未知の2年間がとても長く感じ、しばらく会えなくなると思うと一気に寂しくなりました。またアメリカでの新たな挑戦に対する期待と不安が重なり胸がいっぱいいっぱいになったのを今でも覚えています。帰国し地元仙台で変わらない家族や友達と再会してホッとしたと同時に、JOIコーディネーターとして活動させていただいた2年間を思い返すと、本当に貴重な出会いと経験を頂いた充実した日々だったと改めて感じます。
テキサスは日本の約2倍の面積がある大きな州で、サンアントニオ市は全米で7番目に人口が多い都市です。体感的には5~10月は夏で、7~9月は平気で毎日40度近い気温になります。市内中心部にはリバーウォークやテキサス独立戦争の跡地であるアラモ砦があり観光都市としても知られています。メキシコの国境から近くヒスパニック系の方が半分以上を占めており、公共の場ではスペイン語が日常的に使用されていたり、カラフルな装飾がとても賑やかな雰囲気を醸し出しています。テキサス人はスポーツが大好きですが、その中でも私は漫画「スラムダンク」のファンだったのでNBA(男子プロバスケットボールリーグ)の試合をよく観戦に行きました。また市内にはトヨタ自動車の大きな工場や米軍基地がある関係で日本人の方たちも多く暮らしています。約5~600人の日本人が住んでいると言われ、思い出せるだけで10以上は日本食レストランやラーメン屋さんが思い浮かびます。
配属先の通称UTSAでは3万人以上の学生がおり、そのうち日本語を履修している生徒が200名弱いました。初めの頃は、地域の学校や図書館とのコネクションを作るのが難しかったので、大学で学生向けに日本文化についてプレゼンテーションをしたり料理クラスを主催したり、ジャパニーズクラブという学生サークルを手伝ったりという形でJOIコーディネーターとしての活動を始めました。すぐに色々なご縁もあり小中高や図書館、地元のイベントやフェスティバルにアウトリーチに行くようになったのですが、大学での活動は今となってはいい予行練習になっていたなと感じます。まだ上手く英語で説明出来なかった私に、意味を汲み取ってくれた学生が代わりに説明してくれたりして、少しずつ学んで自信をつけられました。お陰でたくさんの学生とも繋がり、のちにボランティアとしてイベントを手伝ってくれたり、プライベートでも出かけたりと友達の輪も広がりました。


私が在籍していたオフィスはサンアントニオ日米協会との繋がりも強く、毎年恒例の日米協会主催「秋祭り」にも参加させていただきました。また書道教室を協力して開催したご縁もあり、念願だった書き初め大会のサポートを頂きながら2年連続で開催することが出来ました。毎年、30名近い中・高生と大人の方の参加があり、日本文化に対する関心の高さが見られました。課題のお手本を元に制限時間内で作品を提出するという、書き初め大会が持つ独特の雰囲気と緊張感をアメリカでも再現できたことをとても嬉しく思います。審査員をお願いした日本人の方々も参加者の集中力の高さと初めてとは思えない書の腕前に驚いておられました。


2年目の春、料理が好きだったわたしはJOIの集大成として国際交流基金の助成金を頂きながら大学でシリーズものの日本食イベントを開催することにしました。スーパーバイザーとオフィスの全面協力を得ながら映画上映、料理教室、先生向けのワークショップ、SNSでの弁当写真コンテストなど様々なイベントを主催しました。中でも印象深いのが、おにぎりとお弁当を通して食に関する教育を行っているTABLE FOR TWOという非営利団体とコラボレーションした弁当ワークショップです。代表の方のプレゼンテーションでは日本の「もったいない」精神や食の重要性を改めて学びました。またプロのシェフによるデコ弁のデモンストレーションは目から鱗のテクニックばかりで見ていてとてもワクワクして、参加者の目も輝いていました。参加者から市内の日本食スーパーはどこにあるのか?もっと和食について学びたいなどフィードバックを頂き準備は大変でしたがとてもやりがいを感じました。

JOIの活動を通し、日本の文化、習慣が持つユニークさ、素晴らしさを再認識することが出来ました。それと同時にアメリカや他の異文化に対する理解や興味も深まったと感じます。サンアントニオで経験したことはここに書ききれませんが、公私ともに大変お世話になったスーパーバイザーには感謝しきれません。また、JOIという素晴らしい機会を与えてくださった国際交流基金日米センターとローラシアン協会に感謝でいっぱいです。この2年間で得た数えきれないほどの出会いや経験は私の人生の宝物です。本当にありがとうございました!

山あり谷あり、草の根ボランティア活動の2年間
私の派遣されたクラークスビル・モンゴメリー郡(CMC)は、テネシー州の北西部にある人口約20万人の小都市で、私が所属したオースティン・ピー州立大学(APSU)と、フォート・キャンベルというケンタッキー州に跨った軍事基地があります。APSUは学生数1万人の地方の中規模大学で、地元の学生が大多数を占めており、外国人留学生は2%足らずと国際化は遅れていました。私は現地赴任前に、スーパーバイザーのランズ准教授から「APSUと現地日本企業との関係を作りたい」という、通常のJOIコーディネーターの業務とちょっと異なった課題をもらいました。このため、現地に赴任してまず最初に手掛けたのは、州内の日本企業の分布を調べてマップを作ること、次に近隣の企業とコンタクトを取り、企業訪問して大学との連携のニーズを探ることでした。赴任後数カ月はこの活動は順調に進むように思われましたが、企業のニーズが次第に明らかになり、大学との連携を具体的に検討する段になって、大学側に企業ニーズに合わせたサービスを提供する準備がないことが明らかになり、この試みは残念ながら半年余りで挫折することになりました。

このため、JOIコーディネーターの活動は、本来の文化交流・普及の仕事に軸足を移すことにしました。まず大学内や近隣コミュニティーで、「日本語・文化クラス(Japanese Language/Culture Class(JLCC)」を実施して、日本語や日本文化に関心を持つ人々を増やしていくことに重点を置きました。
手始めに大学内で、JLCCを毎週1回のペースで開き、日本語専攻の学生を対象に楽しめる課外授業を実施しました。AV教材を多用した授業は好評で、2017年9月から2018年4月まで27回に亘って開催し、これで手応えを掴みました。

5月に大学が夏期休暇に入ったので、CMC公立図書館と相談して、JLCCのコミュニティー版を同じく週1回のペースで開催することにしました。大学での経験を基に日本文化紹介に力を入れて、8月まで12回に亘って日本語と日本文化紹介のクラスを実施しましたが、10代から70代まで幅広い参加者が常時15~20人出席して、大変好評でした。
これに味を占め、公立図書館も継続して支援してくれて、2018年9月から12月まで、11回にわたり「折り紙クラス」を実施しました。クラス内容は、全部で50種類を超える折り紙の実習と共に、折り紙を応用した科学技術や、医療技術、建築、芸術、宇宙科学などのビデオを見せて、折り紙を取り巻く世界の広さと楽しさを伝えるように努めました。
JLCCのコミュニティー・クラスは、その後も公立図書館の積極的な支援と参加者の熱意に支えられて、2019年1月~4月(春学期)、5月~7月(夏季休暇)と帰国直前まで継続し、通算して44回のクラスを数え、JOIコーディネーターのアウトリーチ活動の中心になりました。
1年目に準備して、2年目に実現に至った成果の一つは、CMC内の高等学校において、新規に日本語コースをスタートすることができたことです。私が赴任した時、APSUの日本語コースは、開始から5年目で存続の危機に瀕していました。財政的理由から日本語講師を常勤で雇用するのが難しく、講師が離職の寸前にあったのです。これを救ったのが、スーパーバイザーの発案による高等学校と大学が共同して1人の講師を雇用するという妙手でした。当時CMCの教育委員会は、高等学校で日本語の授業を開始することに関心を持っていましたが、大学からの提案により語学教師を共同で雇用することで、経済的負担を軽くしながら授業を開始する目途が立ったのです。JOIコーディネーターの貢献は、国際交流基金の「日本語講座講師給与助成」を申請して獲得する橋渡しをすることで、日本語コース継続・新規開始の後押しをしたことでした。

APSUと日本の大学との交流の推進は、JOIコーディネーターの仕事としても重要でした。2018年2月に日本の広島県立大学から、10名の語学研修生が2週間来校した際、日本語専攻の米国人学生たちとの交流プログラムを企画・実施し、高い評価を頂きました。その後、立教大学、石川県小松大学、北鎌倉女子学園高校などとコンタクトがあり、将来の本格的な協力協定締結や学生の交換等に向けて、APSUの国際学生センター内に「日本戦略グループ」が形成されましたが、JOIコーディネーターはその一員として、関係者間の情報共有やESLプログラムの作成・改善等に間接的に貢献しました。

その他、JOIコーディネーターがこの2年間に参加した企画やイベントは数多くあり、限られたスペースに列挙できませんが、そのつど新しい人間関係が広がっていく楽しさを堪能した2年間でした。
最後に、この2年間JOIコーディネーターを受け入れてくださったAPSUと、スーパーバイザーのランズ准教授、CMC図書館の皆さん、ナッシュビルの日本総領事館の方々及びお世話になった数多くの友人たちに心からお礼を申し上げます。
日本とウェストバージニアの絆
ウェストバージニア州ってどこですか?とよく聞かれます。無理もありません。特段アメリカに詳しくない限りは州の位置さえ覚束ないでしょう。例外なく私もその一人でした。連なるアパラチア山脈と「ウェスト」のバージニア州として独立した歴史的背景。渡米前に造作なくネットで知り得た知識とその印象が、二年後の今になって大きく変わった事は言うまでもありません。
ウェストバージニア州は日本人がよく知るニューヨークやカリフォルニアと比較するとこぢんまりとした州です。豊かな鉱物資源をもとに炭鉱業や製造業による経済発展を遂げました。現地の方々が郷土を愛し、温かく子どもたちや地域の人々と関わる様子を見て、思わず気持ちがホッとする機会が沢山ありました。カントリーロードの歌にあるように、自分が生まれ育った郷土への愛情や所属意識というものがいかに美しいか、彼らの日常の生活がそれを教えてくれます。
そんなウェストバージニア州で日本の文化を紹介するのは少し難しいのではないか、と考えていた私の不安は現地着任後に一掃されます。幸いな事にJOIが二名、J-LEAPが一名すでに過去に派遣されており、私のミッションは「継続と発展」に絞られました。(私の着任後さらにJOIが一名、J-LEAPが一名新しく着任しました。)新しく開拓するだけでなく、どのようにかつての前任者らの貢献を継続し、またさらに発展させてゆくかを念頭においていました。
サステナビリティを重視する事は任期が限られるJOIの活動において非常に大切な観点です。
前任者の取り組みを踏まえて、自分はウェストバージニア州、またマーシャル大学で何を残し繋いでいけるのだろうかという不安感・責任感でいっぱいでした。しかし、スーパーバイザーのデイビッドさんと話を進める中で多くのアイデアを実現する事ができました。
一つ目に、JOI第10期の山田梓さんの図書館での活動がもとで、マーシャル大学の日本語プログラムに入学した学生へのインタビューをビデオに収めました。このビデオにはそれだけでなく、いかにJOIの活動が地域へ貢献しているかを各関係者へインタビューを行い、それらも同時に収録しました。彼女の取り組みが時間を経て、目に見える形で成果が出ていることや今もその図書館で料理教室や書道体験を通して多くの子どもと大人が日本文化に親しんでいるという事を学内外の方々に広く知って頂ける活動になりました。
二つ目に、私とデイビッドさんで立ち上げた日米姉妹校プログラムがあります。現在ウェストバージニア州では四年前から二校の高等学校が日本語のクラスを開講しています。その学校と愛知県東海市にある横須賀高校を姉妹校として繋ぎ、生徒間における文化交流学習を進める取り組みです。JOI第14期の本間恵さんとJ-LEAP第6期の山口慧さんが高校で始めたJapan Clubを中心に、より活動が活発になりました。自己紹介レターや年賀状の交換、学校文化紹介や生徒たちが練習して歌う英語・日本語の歌のビデオ交換など様々な活動を通して両校の生徒交流は深まりました。この様な活動も前任者やJ-LEAP第8期の上尾志乃さんの助けがあってこその成果であり、これからも引き続き発展させてゆくサステナビリティとして大きな礎を築きました。


最後に、JOIの一番基本的な活動である学校訪問です。子どもたちはいつも元気です、とはっきり言いたい所ですが現実はそうでもありません。教室にいる間は元気かもしれませんが、日々彼らの気持ちと感受性は変容します。家庭における文化・経済環境が異なる背景を持った子どもたちが学校には沢山います。教育や貧困の格差が如実に表れる社会全体の縮図が学校現場から始まっていることはアメリカに限った話ではありません。私は子どもたちとの限られた時間の中で少しでも何か残るように自分なりのルールを設けていました。それは、チャレンジしない子どもにはチャレンジさせるように、チャレンジする子にはさらにチャレンジさせるようにする事です。


私はただ日本文化に対する彼らの興味関心を説明や質問の回答で満足させるだけでなく、よりそれらが深まるように様々な角度から質問を投げかけました。先ほどまで俯いていた子どもが笑顔で自分の意見を発表する場面や、立て続けに質問をする子どもに少し考えさせる質問を逆に投げ返し議論が深まる場面など多くの彼らの学びの瞬間に立ち会う事ができました。おにぎりや折り紙などの家族へのお土産を手に、「さよなら!」と元気よく挨拶をしてくれた子供たちは私の貴重な思い出です。

日本とウェストバージニアには絆があります。それは寿司や自動車、ポケモンだけではありません。この絆を通して沢山の人と出会い、私は本当に幸せでした。日本の話に真摯に耳を傾けてくれた人々に、そしてこの絆をより一層深めるために全力で後押しをして頂いた全ての皆様に心から感謝申し上げます。本当にありがとうございました。
人生の宝物
派遣先のケンタッキー州ルイビルに到着した日のことは今でも忘れません。ステイ先の家の玄関からホストマザーは裸足で出てきて、私を大歓迎してくれました。この日に戻れるのであれば、どんなことでもする!と思えるほど、私のJOIコーディネーターの二年間は、笑顔と笑い声の絶えないかけがえのない時間でした。
「関わる全ての人へ、どんなに小さくても何かきっかけを与えられる人物」を目標とし、この二年間アウトリーチ活動を行ってきました。私はJOIコーディネーターとしての仕事が本当に大好きでした。日本は鎖国期間が長かったため、日本文化は長期にわたって守られ、今でも世界中の人々から愛されています。その日本文化を紹介するという仕事ができたことを、心から誇りに思います。また、この機会を与えてくださったプログラム担当者の方々に心から感謝いたします。
私は、ケンタッキー州ルイビル市のワールド・アフェアーズ・カウンシル・オヴ・ケンタッキー&インディアナ南部に所属していました。世界情勢や国際問題などを課題としたイベントや、短期留学など、社会人や高校生向けのプログラムが多いNPO団体です。私が所属するまで、日本のプログラムというものは一切ありませんでした。ですから、全て自分で一から始めることがとても魅力的で、挑戦できる環境に恵まれているとすら感じていました。
幼稚園・小学校・中学校・高校・大学・図書館と、アウトリーチ先は学校の授業だけに限らず、放課後教室やジャパンクラブを実施したり、日本祭りでのブースでワークショップをしたり、慶應義塾大学から教授やサントリー・ジムビームの副社長らをおよびし、ケンタッキーと日本の関係性についての講演会も主催しました。

その中でも、二年間の中で一番力を入れて取り組んだプログラムは、なんといってもサマーキャンプです。会場の確保、二週間の授業の内容を考え子どもたちの集中が途切れないようアクティビティを含めたレッスンプランとパワーポイントの作成、参加児童の募集、会場の事前チェック、キャンプを手伝ってくれるインターン生の募集。毎朝の子どもの出迎え、授業の実施、子どものお見送り、全て一人で行いました。サマーキャンプは毎日子どもと顔を合わせるので、とても思い入れのあるプログラムでした。
1年目のサマーキャンプは、参加人数に対し私一人で子どもたちを教えなければいけないという状況に四苦八苦してしまいました。低学年の児童は、泣き出してしまう子もいましたが、そのような児童にも「コマ作りが思い通りにできないから泣くのではなく、できないから前向きに挑戦してみよう。」と対応をし、最後には笑顔でキャンプを後にしてもらうことができました。キャンプが終わると、子どもたちは「来年も絶対参加したい。」「アヤコ先生のホームタウン福井に行って恐竜博物館を訪ねたい。」「将来日本で日本語を勉強したい。」と、日本についてさらに興味を持ってくれたので、目的を達成することができたと思います。

1年目の経験を踏まえ、翌年のサマーキャンプでは、インターン生を積極的に募集することにしました。アウトリーチ活動でいった大学で募集したところ、日本に興味を持つ学生からサマーキャンプの手伝いをしたいと応募がありました。その学生も、将来は日本で英語を子どもたちに教えたいという夢を持っていました。インターン生がキャンプを手伝ってくれることになり、2年目のサマーキャンプは1年目よりも効率的に進めることができ、本当に助かりました。参加児童の中には1年目にも参加してくれた子どもが数人おり、そのご両親が「今年もこのサマーキャンプにどうしても参加したいと懇願されたんだよ。」とお話ししてくださり、目頭が熱くなりました。
サマーキャンプが終わると、子どもたちは、手紙を送ってくれたり、更には、学校で日本についてのクラブ活動のリーダーをすることとなったのでアドバイスがほしいとメールをくれたりしました。子どもたちにとって、日本を愛するきっかけになったのであれば、JOIコーディネーターとしてこれ以上幸せなことはないと強く思います。
この2年間を思い返すと、アメリカと日本の教育について色々考えることが多かったと思います。子どもたちは、「ありがとう」という気持ちを相手に伝えるために授業終了後、ハグをしてくれます。日本の学校ではあまり目にしないと思います。
学校の先生からは、「ここは裕福な家庭が少ない地域なので、子どもたちの選択肢を少しでも広げたいと思っているの。そのときにアヤコのプログラムを見つけて、違う国の違う文化を知るきっかけを子どもたちに与えることができて、本当に感謝しているわ。」というお言葉をいただきました。先生の言葉からは、教育者として本当に子どもたちのことを考えている、どうにかして少しでもいい教育を与えたいという気持ちが伝わってきました。アウトリーチ活動を通して、様々な人に出会うことができました。「関わる全ての人へ、どんなに小さくても何かきっかけを与えられる人物」という目標以上のものを得ることができました。
2年間のJOIコーディネーターとしての活動を終えた後、在ナッシュビル日本国総領事館の小林弘之総領事から総領事公邸へ食事に招待していただきました。JOIコーディネーターとして貢献し、ケンタッキー州に日本文化を広めたことについて、恐れ多くもお褒めと感謝の言葉を頂きました。


私がJOIコーディネーターとして活動できたのは、二年間お世話になったホストファミリーがいたからだと言っても過言ではありません。本当の家族のように接してくれ、時にはJOIコーディネーターの仕事について相談に乗ってくれ、オフィスの一大イベントで私が主催の日本酒試飲イベントがあった際には、仕事が忙しいにも拘わらず駆けつけてくれました。ルイビルで出会ったスーパーバイザー、同僚、児童・生徒、先生、友人、ホストファミリー、そしてJOIコーディネーターとしての活動は、私の人生の宝物です。
New me through JOI
JOIプログラムを終えた今、私はどうやら別の自分になってしまった様です。それは、自分を見失う程に米国の文化や習慣に染まったという事でなく、日本では全く気がつかなかった新たな自分の一面を発見という前向きな意味です。
私は正真正銘10年以上のベテランペーパードライバーでした。2年前、車を見るのも怖いくらいで、その恐怖心からJOIの内定を受けるか悩んだ程です。それが今では、時間があれば長距離運転して旅行するまでに成長しました。「運転スキル」を得たことは事実ですが、それだけではありません。
①運転が出来る→②アウトリーチの範囲が広がる→③人と出会う機会が増え、人脈が広がる→④人と通じて米国の歴史や時事問題を深く知り、同時に自国を勉強する習慣を身につける→⑤広がった人脈から新たな引き合いを受ける→①へ戻る。
上記のように、1つ得たスキルが正の連鎖を引き起こすのです。このサイクルのお陰で、ミシガン州での活動は、お金では決して買う事のできない貴重な宝物を私に与えてくれました。ここでは、その内2つの活動に関してお話しします。
台湾の影絵団員と
2018年10日から13日にかけて、ミシガン州の大学や美術館等4か所にて、台湾の伝統的な影絵芝居のグループ『永興楽皮影劇団』と共に影絵パフォーマンスをしました。これは、デトロイト美術館のアジアギャラリー開館を記念して招待された台湾影絵団が「是非、日本との合同で」という強い願いをもって、ミシガン州の台湾系団体が私に声をかけてくれて実現したものです。3つの演目の内一つは日本の『桃太郎』を選び、物語の前半を影絵で、後半を私がスライドと音楽に合わせて物語を伝えるという方法で公演をしました。作品をどう伝えるか?という初期段階から打ち合わせに参加し、数ヶ月の準備期間を経て本番を迎えたのですが、一番驚いたのは、両国の『桃太郎』に対するイメージがかけ離れていることでした。

お爺さんはお婆さんを「ハニー」と呼び、遊び惚けてろくに仕事もしない。ストーリーそのものは大きく違わないものの、細かな描写の違いが多く、何度も話し合いを重ね、互いの合意点を模索し、認識の違いを埋めていきました。その結果、3日間で約1,500名の観客を魅了し大成功!この機会をきっかけに、アジアの仲間と協力して文化交流を促す事の大切さを実感しました。アジアの中の日本という意識により、より多くの人々へのアウトリーチが可能になり、アジア間での新たな友好が芽生えました。
アニメ声優体験ワークショップの開催
ミシガン州における日本に対する認知度は、姉妹都市間の人材交流や自動車関係の日系企業の影響もあり、比較的高く友好的です。更にインターネットやSNSを通じて、日本の情報を得るのは簡単ですが、人々の興味関心は日本に限ったことではないでしょう。特に若者は、日々受け取る情報量が多すぎて、もしかすると消化不良のまま、次の情報を受け取るかもしれません。どんなに日本好きの若者でも、日本への関心も一時的なものになる可能性も高いと感じていました。
そんな時、参加型の日本文化体験を提供することは、記憶が鮮明に人々の脳裏に焼き付き、日々の大量の情報の波にも呑まれることのない強い興味関心を生み出す事ができると考えました。でも、そのためには楽しくないと逆効果。そこで私は、日本映像翻訳アカデミー(JVTA)との協力の元、ニューヨーク日米センターの教育グラントを申請し助成金を得て、日本からゲスト講師とともにアニメを使った声優体験ワークショップを2019年3月14日から21日にかけて、ミシガン州3都市の、図書館、アニメイベント、高校、大学で行いました。

日本語で吹き替えするといえども、言語はあくまでもツールです。90分完結型ワークショップでは、アニメのキャラクターが醸し出す顔の表情や仕草から汲み取れるメッセージの分析をメインに、日米間のコミュニケーションの違いを理解し、アニメのワンシーンを完成させました。大成功に終わり、参加した多くの方が笑顔で「またやりたい!日本人の感性や日本語を知れてとても楽しかった!」と言ってくれたのが印象的でした。


最後に
この報告書では上記二つについてお話ししましたが、最後に一言。ミシガン州と滋賀県は姉妹都市県州50年という友好関係を築いており、現在でも積極的な人材及び経済交流が行われています。この友好関係の更なる発展の為に、2年間で多くの政府事業にも参加させて頂きました。姉妹県州委員会、並びに滋賀県庁職員の方々に感謝の意を表します。そして、この2年間は国際交流基金とローラシアン協会、そして私を快く受け入れて下さったミシガン州立大学連合日本センターの多大なる支援のお陰です。感謝の気持ちを忘れることなく、これからも邁進して参ります。ありがとうございました。
遠いけど 実は近い「日本」を伝えたい!
赴任当日、これから働くことになるウェイク・フォレスト大学を車の後部座席から見ながら、その広さに圧倒されました。大きい学校ですね、と助手席のスーパーバイザーに言うと、大笑いしながら、他の大学に比べたらここは小さい方だよ、と教えてくれました。「広い」という感覚の差を知るところから、わたしのアメリカでの2年間は始まりました。そして赴任して半年も経たないある日、プログラムで出会った方が「(日本とアメリカは)何もかも違うから、慣れるのが大変でしょう」と気遣ってくれました。確かに大学が「広い」という感覚をはじめ、レストランで出てくる食べ物の量が多いとか、大学のキャンパスをリスが走り回っているとか、日本と違うところはたくさんあります。一方で、街中には馴染みのあるファストフード店がいくつもあったし、ノースカロライナの大学生たちは、日本の大学生と同じように進路に悩んだりしていました。「違うところもあるけど、似ているところも多いです。ときどき大変なこともあるけど、でも楽しいです」と答えながら、これこそ現地の人々に伝えたいことだと思いました。
派遣先であるノースカロライナ州ウィンストン・セーラムは、古い歴史を持つ街であり、大学都市でもあります。大学の学生や関係者を含めても、日本人はごくわずか。近所のスーパーで醤油くらいは手に入りますが、慣れ親しんだお米を買うには、車で30分の近隣の街へ行かなければなりません。そんな場所で、地元の文化や歴史、教育制度に触れたり、とってもアメリカンな「日本食」や南部料理に挑戦したりしながら、地元の人々に日本を知ってもらう活動をしてきました。日本の年中行事や学校生活、ポップカルチャーや伝統芸能など、紹介する内容は多岐に渡ります。活動先も、小学校から大学、シニア・センターに至るまで様々。訪問先に応じて興味を持ってもらえるよう準備を進める中、ずっと暮らしていたにも拘わらず知らなかった日本を学び直す機会がたくさんありました。


アメリカでは冬が終わると、「スプリングクリーニング」といって冬物をしまい、春に向けて大掃除をすることが一般的です。2年目の春、スプリングクリーニングの時期に合わせ、複数の図書館をまわって日本の住まいと片付けに関するプログラムを開催することになりました。当時、日本人著者による片付け本が大人気だったのです。「スプリングクリーニング、日本にもあるでしょうか?」聴きに来てくれた方々に問いかけると、「あるかどうかなんて考えたこともなかった」とか「日本の人は掃除が得意みたいだから、毎日掃除して大掃除はしないと思う」と反応は様々。日本では年末の大掃除が一般的であることをはじめ、和室や神棚、家の中では靴を脱ぐという習慣など、「日本的」な住宅文化をお話しすると、それに関する日本の宗教や学校生活などの質問が、参加者の皆さんからたくさん飛んできました。また、Futonは英単語として定着していますが、英語のFutonはマットレスのようなものを指すことが多く、日本の寝室にある「布団」とは少し違ってくるので、解説が必要です。Futonがもともと日本語であることを知らない方も多く、「いつのまにか日本語を知ってた!」と驚く方もいました。EmojiやKaraokeなど今では英語になっている日本語をはじめ、現地の人々に浸透している日本発祥・日本製のものはたくさんあります。ただそれが、日本から来たものだと知られていないだけなのです。
伝えたかったのは、それだけではありません。日本で生活する人は、玄関を上がるときに靴は脱ぐけれど、その家の多くにはアメリカの家庭と同じようにキッチンがあり、リビングルームがあります。アメリカの家庭と同じメーカーの家電が置いてあるかもしれません。日本には布団で寝る人もいるけれど、ベッドで寝る人もたくさんいます。日本独特の文化を知ってもらうことも大切ですが、日本とアメリカの共通点に気づいてもらうことこそが、2年間を通してわたしのJOIコーディネーターとしての目標でした。「日本にもテレビってあるの?」「日本の人はいつも箸を使うの?」と疑問に思っていた人たちが、「うちのテレビ、日本の会社のだった!」とか「日本でもスプーンとかフォークは使われるんだ」と発見していく様子を目にすることが、活動の原動力であり、やりがいを感じる瞬間でした。


JOIコーディネーターとして活動した2年間、たくさんの夢が叶いました。アメリカに住むということ、現地で日本を伝える活動をすること、異文化交流の少ない地域において、交流のきっかけとなること。そして、「日本的」な日本だけでなく、本当の日本の姿を伝えようと試みること。このような貴重な機会をくださり、2年間温かく見守ってくださった国際交流基金とローラシアン協会の皆さま、そしてウェイク・フォレスト大学の皆さまに感謝申し上げます。ありがとうございました。