ノースカロライナ州 North Carolina
州の情報
- シャーロット
- カロウィー
- ウィンストン・セーラム

州都 | Raleigh/ローリー |
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人口 | 1,044万 |
主要都市 | Charlotte/シャーロット Greensboro/グリーンズボロ |
主な観光地 | アッシュビル観光 グレートスモーキー山脈国立公園 ビルトモアエステート |
州の紹介
サウスカロライナと一つであったノースカロライナは、独立13州の一つで、1789年に12番目のアメリカ合衆国州となりました。山、川、海などの自然と触れ合う機会の多い同州は、ハイキング、海水浴やスキーなど四季折々のアウトドアアクティビティに最適です。テネシー州とノースカロライナ州に跨るグレートスモーキー山脈国立公園は、19,000種以上の生物が生息する、最も訪問者の多い国立公園です。アッシュビルにあるビルトモアエステートは、250以上の部屋数を誇る米国最大の私邸で、そのアンティークや庭園も一見の価値があります。アッシュビルのダウンタウンでは、アートギャラリー、ユニークなレストランや地ビールなどが楽しめます。
コーディネーターの現地レポート
この州に派遣されたコーディネーター
大学では情報科学を専攻するとともに、教職課程と日本語教員養成課程を履修し、主にプログラミングや教育について学ぶ。資格が取得できるという理由で履修していた日本語教員養成課程であったが、学んでいるうちに日本語を教えることや、日本の文化を伝えること、国際交流に興味が湧く。また、大学入学当初より、塾講師として働いていたこともあり、教育分野にも強い関心があり、このような自身の経験や知識を活かせる場はないかと模索していたところ、JOIプログラムに出会い、コーディネーターとして活動したいと思い応募。すでに日本に興味を抱いている方には、より興味を抱いてもらえるよう、そうでない方には、少しでも興味を抱いてもらえるよう、活動したい。
遠いけど 実は近い「日本」を伝えたい!
赴任当日、これから働くことになるウェイク・フォレスト大学を車の後部座席から見ながら、その広さに圧倒されました。大きい学校ですね、と助手席のスーパーバイザーに言うと、大笑いしながら、他の大学に比べたらここは小さい方だよ、と教えてくれました。「広い」という感覚の差を知るところから、わたしのアメリカでの2年間は始まりました。そして赴任して半年も経たないある日、プログラムで出会った方が「(日本とアメリカは)何もかも違うから、慣れるのが大変でしょう」と気遣ってくれました。確かに大学が「広い」という感覚をはじめ、レストランで出てくる食べ物の量が多いとか、大学のキャンパスをリスが走り回っているとか、日本と違うところはたくさんあります。一方で、街中には馴染みのあるファストフード店がいくつもあったし、ノースカロライナの大学生たちは、日本の大学生と同じように進路に悩んだりしていました。「違うところもあるけど、似ているところも多いです。ときどき大変なこともあるけど、でも楽しいです」と答えながら、これこそ現地の人々に伝えたいことだと思いました。
派遣先であるノースカロライナ州ウィンストン・セーラムは、古い歴史を持つ街であり、大学都市でもあります。大学の学生や関係者を含めても、日本人はごくわずか。近所のスーパーで醤油くらいは手に入りますが、慣れ親しんだお米を買うには、車で30分の近隣の街へ行かなければなりません。そんな場所で、地元の文化や歴史、教育制度に触れたり、とってもアメリカンな「日本食」や南部料理に挑戦したりしながら、地元の人々に日本を知ってもらう活動をしてきました。日本の年中行事や学校生活、ポップカルチャーや伝統芸能など、紹介する内容は多岐に渡ります。活動先も、小学校から大学、シニア・センターに至るまで様々。訪問先に応じて興味を持ってもらえるよう準備を進める中、ずっと暮らしていたにも拘わらず知らなかった日本を学び直す機会がたくさんありました。


アメリカでは冬が終わると、「スプリングクリーニング」といって冬物をしまい、春に向けて大掃除をすることが一般的です。2年目の春、スプリングクリーニングの時期に合わせ、複数の図書館をまわって日本の住まいと片付けに関するプログラムを開催することになりました。当時、日本人著者による片付け本が大人気だったのです。「スプリングクリーニング、日本にもあるでしょうか?」聴きに来てくれた方々に問いかけると、「あるかどうかなんて考えたこともなかった」とか「日本の人は掃除が得意みたいだから、毎日掃除して大掃除はしないと思う」と反応は様々。日本では年末の大掃除が一般的であることをはじめ、和室や神棚、家の中では靴を脱ぐという習慣など、「日本的」な住宅文化をお話しすると、それに関する日本の宗教や学校生活などの質問が、参加者の皆さんからたくさん飛んできました。また、Futonは英単語として定着していますが、英語のFutonはマットレスのようなものを指すことが多く、日本の寝室にある「布団」とは少し違ってくるので、解説が必要です。Futonがもともと日本語であることを知らない方も多く、「いつのまにか日本語を知ってた!」と驚く方もいました。EmojiやKaraokeなど今では英語になっている日本語をはじめ、現地の人々に浸透している日本発祥・日本製のものはたくさんあります。ただそれが、日本から来たものだと知られていないだけなのです。
伝えたかったのは、それだけではありません。日本で生活する人は、玄関を上がるときに靴は脱ぐけれど、その家の多くにはアメリカの家庭と同じようにキッチンがあり、リビングルームがあります。アメリカの家庭と同じメーカーの家電が置いてあるかもしれません。日本には布団で寝る人もいるけれど、ベッドで寝る人もたくさんいます。日本独特の文化を知ってもらうことも大切ですが、日本とアメリカの共通点に気づいてもらうことこそが、2年間を通してわたしのJOIコーディネーターとしての目標でした。「日本にもテレビってあるの?」「日本の人はいつも箸を使うの?」と疑問に思っていた人たちが、「うちのテレビ、日本の会社のだった!」とか「日本でもスプーンとかフォークは使われるんだ」と発見していく様子を目にすることが、活動の原動力であり、やりがいを感じる瞬間でした。


JOIコーディネーターとして活動した2年間、たくさんの夢が叶いました。アメリカに住むということ、現地で日本を伝える活動をすること、異文化交流の少ない地域において、交流のきっかけとなること。そして、「日本的」な日本だけでなく、本当の日本の姿を伝えようと試みること。このような貴重な機会をくださり、2年間温かく見守ってくださった国際交流基金とローラシアン協会の皆さま、そしてウェイク・フォレスト大学の皆さまに感謝申し上げます。ありがとうございました。
3万マイル走って伝えたかったこと
2007年夏、派遣されて直ぐに購入した私の車は当時、総走行距離118,000マイル(約19万km)を記録していました。そんなに走っている中古車なんて日本ならとっくに廃車でしょうが、米国ではまだまだ現役です。それがJOIの任期終了前には、合計総距離がなんと146,000マイルになっていました。約3万マイル(約4.5万km)も走ったことになります。目を疑うと同時に、よく走ったものだとしみじみ2年間のJOIの活動を振り返りました。
ノースカロライナ州カロウィーは、周囲を山に囲まれた自然の豊かないわゆる「大学町」といったところです。州の西端に位置し、北はテネシー州、西はジョージア州、どちらにも2時間で行け、夏から秋にかけてグレートスモーキーマウンテン国立公園やブルーリッジパークウェイ等に多くの観光客が訪れます。日本で1分、2分を惜しんで生活していた私には、まるで違う時間が流れているような気がしたのを思い出します。
派遣当初のある日、小学校で日本紹介をした帰りに着物姿で愛車にガソリンを入れていると、一人の女性が店から駆け寄ってきて「どこから来たんですか。この辺の方ではないでしょう?」と話しかけられました。内心「それはこの格好だから・・・」と思いながら、「日本から最近来たんですよ。日本の文化を学校で紹介するプログラムに参加しているんです」と答えると、「娘が小学校に通っているので、是非来てもらえませんか」と突然依頼を受けました。
日本では着物を着る機会は今や稀なので、「生の日本」紹介をするという意味で、着物で学校訪問などのアウトリーチをすることを、実は最初はあまり良く思っていませんでした。しかし、自分の存在が知られておらず、活動の機会がなかなか得られなかったところに着物のおかげで良い話が飛び込んで来た訳です。大げさに見えても、「あっ日本人が歩いている」と分かれば話しかけやすいのでしょう。事有るごとに着物を着て出かけては、急ぎの買い物も無いのにスーパーに入って店内を歩いていると、必ず2~3人に話しかけられるようになりました。そんな中には日本の紹介をして欲しいという方もいて、一度学校で日本の紹介授業をすると、今度は周囲の学校からうわさを聞いて依頼が来るようになります。11月には沢山の依頼で張り合いが出てきて活動がとても楽しくなりました。

周囲の助けもあって順調に活動を進めていた最中の2008年1月末、突然、日本の家族が事故に遭ったという連絡が入りました。時差も考えずに親戚に電話をすると、両親と妹の乗った車に対向車線から車が衝突して3人とも病院に運び込まれたというのです。すぐに飛行機の手配をして、知らせを受けて3日後にようやく家族に対面できました。幸い命は助かったものの、自分がすぐに米国にトンボ帰りできる状態ではなく、しばらく様子をみることにしました。
何ヶ月も前から受けていた依頼を断って、せっかく現地で作り上げた信頼関係やネットワークが壊れてしまうのではないか。もうJOIの活動を辞めて、このまま日本に帰って家族を看病しようか。帰国から十数日は、自宅と病院を往復しながらそのことがいつも頭から離れず、ずっと先のことまで悩んでいました。
そんな中、カロウィーの隣町、アッシュビルの生け花グループからカードが届きました。封筒を開くと綺麗な千代紙で折られた五羽の鶴が励ましの寄せ書きと共に同封されていました。胸がとても熱くなりました。私はその時、家族の回復の目途がついたら米国に戻ろうと決めたのです。
春に米国に戻った私は、付近の学校はもちろん、老人ホーム、公立図書館、時には往復800km先の地域まで出かけ、以前にも増して張り切って活動をしました。こうして活動の場を拡大しながら1年目を無事に終えたところで、2年目には新しい取り組みを始めました。
日本で生け花を教えていた私は、生け花は「なまの花で生けなくてはならない」という固定観念に囚われていました。しかし、目下予算の少ない学校や給食費にも困る家庭では、とてもお花を買う余裕などありません。そこで、折り紙で作った花を使えば材料費に困らないのではと考え、折り紙での生け花を試すことにしたのです。

すっかり顔なじみになった小学校の先生に快諾いただいて、まずは教室で生け花の基礎や歴史を教えます。そして、校庭から取ってきた木の枝と折り紙の花を使い、それぞれ小さなプラスチックのカップに給水スポンジを入れての生け花です。生け終わると、生徒は皆一様にとても喜んで自分の作品を眺めていました。すると一人の男の子が、この生け花を家に持って帰って良いかと勢い込んで聞いてきました。「勿論いいですよ。どうするの?」と聞くと、「ステップマザー(継母)にあげるの!」と大事そうにコップの花を持って行きました。その言葉を聞いて、日本で20年間生け花を習っていて何を勉強してきたのか、と自分を責めました。私は今まで生け花の基本を忘れていたんじゃないか、とつくづく感じました。ノースカロライナを3万マイル走って伝えたかったこと。私が日本のことを伝えたかったはずなのですが、実はそれは、生け花が私に伝えたかったことではなかったのかと思います。
現在は2年間お世話になった大学の大学院で美術の勉強をしてとても充実した毎日を送るとともに、日本文化紹介の活動も続けています。きっとこれからもずっと、私のライフワークになることでしょう。
現地での活動
私が派遣されたのは、ノースカロライナ州シャーロット市にある、スミスアカデミーという公立の学校とサウスイースト・オリガミという非営利団体でした。スミスアカデミーには、日本語のイマージョン(学習中の言語を使って学校生活を行いながらその言語を習得する教育法)プログラムがあり、幼稚園から中学校までのいろいろな国籍の子ども達が、算数や社会などほとんどの教科を日本語で学習しています。スミスアカデミーには日本語だけでなく、ドイツ語やフランス語のイマージョンプログラムもあるので、学校内ではいろいろな言語が飛び交い、とても興味深い学習環境でした。また、スミスアカデミーの日本語イマージョンプログラムの先生方を中心に、シャーロット・ガストニア地区日本語教師会が結成されており、日本関連の様々な活動やイベントが企画・運営されています。
サウスイースト・オリガミは、折り紙を地域に浸透させることを目的として、地元の学校やコミュニティセンターで折り紙に関するプレゼンテーションをしたり、折り紙作品を各地域に展示するといった活動とともに、地元の学校のカリキュラムに折り紙を取り入れることを試みるなど、常に折り紙の新しい可能性を追求している団体です。Origamiという英語表記が定着してきているように、折り紙という文化は日本という枠を越え国際的になってきているのを目の当たりにできる環境で、「鶴」や「かぶと」しか折れなかった私には目からうろこが落ちる思いでした。

将来へむけて
日本に帰ると、米国で過ごした 2 年間が現実味なく私の中に存在しています。しかし、アメリカでお世話になったホストファミリーから届いた絵葉書や、アメリカで知り合った人達からのEメールを読むと、米国での思い出が私の中で泉のように湧き、もう一度渡米したい心境に駆られます。
どんな小さな日本への興味でも維持していくことによって、やがて次世代にも続く日米交流になることを信じ、絶え間ない努力を続ける人達にたくさん出会いました。アメリカという地に根をはって生きている日本人が、熱意を持って日米交流・日本文化理解を促進していくことで、日本をもっと知りたい、日本に行きたいという夢を持つ現地の人が増え、お互いが心地よいコミュニティが作られていく過程を目の当たりにできました。そんな人達とともに働くことで、コンピューターなどの技術面だけでなく、文化や人種の違いを超える人のつながりが確かに存在するということも実感しました。
日常生活においても、「サザン・ホスピタリティー(南部流の手厚いもてなし)」を実践するおおらかで温かい地元の人に囲まれ、渡米経験のなかった私でもアメリカの衣食住を堪能することができました。「ちょっとスーパーに」といっても車で行かざるをえない車社会でしたが、スケールの大きなアメリカを肌で感じるいい機会になりました。
帰国後は、JOIプログラムで得た知識・経験を生かして、さらなる日本文化理解促進に努めていきたいと思っています。また、私がアメリカを去った今でも、連絡を取り合っている友人やスーパーバイザーとのつながりをこれからも大切にしていきたいです。最後に、このような機会を私に与えてくださった国際交流基金日米センターとローラシアン協会スタッフの方々に心より感謝申し上げます。