テネシー州 Tennessee
州の情報
- マーフリーズボロ
- メンフィス
- チャタヌーガ
- クラークスビル

州都 | Nashville/ナッシュビル |
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人口 | 691万 |
主要都市 | Memphis/メンフィス Knoxville/ノックスビル |
主な観光地 | カントリーミュージック殿堂博物館 ジャックダニエル蒸留所 グレートスモーキー山脈国立公園 |
州の紹介
1796年に16番目のアメリカ合衆国州となったテネシーは、8つの州に挟まれた雄大な自然と音楽の州です。全米で最も訪問者の多いグレートスモーキーマウンテンは、ノースカロライナ州と同州に跨がり、6-10月はハイキングに最適な時期で、紅葉狩りも人気があります。カントリー音楽からブルースなど多様な音楽の中核とも言えるテネシーは、州都ナッシュビルのカントリーミュージック殿堂博物館、エルビスプレスリーが一躍有名になったメンフィスのビールストリート、そして、彼が1977年に亡くなるまで住んでいた邸宅が人気スポットです。世界的に有名なジャック・ダニエルウィスキーが生まれた同州では、ジャック・ダニエル蒸留所でのツアーも見どころです。
コーディネーターの現地レポート
この州に派遣されたコーディネーター
幼い頃から習っていた琴や日本語教師の母の影響で日本文化を伝えることに以前から興味があった。大学時代は、社会人類学を専攻し、長期休暇の度に国内やアジア、欧州、南米へバックパッカー旅行に出掛ける中で、文化によって世界の見方が異なること、そしてそれを知ることの楽しさ、重要性を学ぶ。
交換留学で滞在していた英国ウェールズでは、日本文化サークルで活動をし、着物や茶道などのイベントを企画する中で、Ambassadorと呼ばれることに喜びを覚え、大学卒業後は国際交流プログラムの仕事に従事。今度は、自分が日本を伝える事で人々に異文化理解の楽しさを伝えたい、また米国で自分がいかに人々へ影響を与えられるかチャレンジしたいと思いJOIに応募する。
波乱の2年間
2019年夏、アトランタでの研修を終え、たくさんのワクワクとドキドキを抱えて、スーパーバイザーとともにホストサイトであるテネシー州チャタヌーガに車で向かったのを今でも鮮明に覚えています。
チャタヌーガはアトランタから車で約2 時間のところに位置する「南部の絶景の中心地」と呼ばれる中都市で、自然豊かな美しいところです。私はここでたくさんの人と出会い、支えられ、JOIコーディネーターとしての2 年間の任期を無事に終えることができました。
派遣されてから約半年後に新型コロナ・ウイルスが世界中で猛威を振るい、パンデミックの真っ只中での活動となってしまいましたが、想像をはるかに超える貴重な経験となりました。2年間のJOIの活動を振り返り、特に印象に残っている活動をいくつか紹介したいと思います。
まず私は派遣されてまもなく、Park(ing) Dayという屋外イベントに参加し、日本文化の 展示、お箸チャレンジ、折り紙などを行いました。平日の昼間にもかかわらず、たくさんの人がブースに立ち寄ってくれたのを覚えています。
地域の中学生の団体が「お箸使えるよ!こんなの簡単だよ!」と言いながら、お箸チャレンジに苦戦していたのも印象に残っています。また、私は後にディスカバリーミュージアムとパートナーシップを結び活動することになりますが、ミュージアムの責任者との出会いもこのイベントでした。JOIとして初めてのアクティビティは、良い出会いとボランティアで集まってくれた学生との絆を深めてくれました。


JOI一年目の活動の中で最も成功したのは、2020年2月にチャタヌーガの映画館で開催したイベントです。在ナッシュビル日本国総領事館と協力して日本の映画「杉原千畝物語」を上映しました。この映画は、何千人ものユダヤ人を救うためにキャリアを危険にさらした日本人の外交官の実話です。
私のホストファミリーがユダヤ人家族だったということもあり、チャタヌーガのコミュニティでこの映画を紹介したいと考えました。

映画上映の前には、「杉原サバイバー」の娘であるSonia Milrod氏をゲストスピーカーとして招き、彼女の貴重な家族の話を聞くことができました。
また、当時着任したばかりの福嶌香代子総領事にもスピーチをしていただき、とても有意義なイベントとなりました。約70 名の方にご来場いただき、実施したアンケートでは、「映画を通して日本の歴史について学びました。」「日本のことをもっと知りたいです。」など、多くの好評をいただきました。
新型コロナ・ウイルスがアメリカで広まり始めた3 月中旬からは、予定してあった対面で行うイベントはすべて中止となり、オンラインでの活動に切り替わりました。最初は在宅勤務という新しい状況に慣れるのが大変でしたが、Zoomを利用したオンラインイベントや日本語学習用の動画作成など、柔軟に対応しました。
2020年8月に開催した2週間に渡るオンラインイベントでは、日本の文化、教育、ビジネス、食、祭り、ポップカルチャー、旅行、言語など、さまざまなトピックを取り上げ、合計209 名の方にご参加いただきました。チャタヌーガ地域だけでなく、他の州、さらにはインドネシアからも参加者がいました。参加者からは「日本とアメリカの対比は非常に興味深いものでした。」「日本文化を学ぶのはとても面白かったです。いつか訪れたいと思っています。」などの感想をいただきました。
活動がオンラインになったことで地域の枠を超えて、より多くの人に日本文化を伝えることができるようになったのはメリットだと感じました。また普段のオンラインイベントに加えて、さらに日本への関心を深めてほしいという思いから、「Learn and Train with Samurai in Tokyo」と「Try Drawing Manga Illustration with a Pro .」という2つのAirbnb experienceを大学の職員と学生を対象に共催しました。Airbnb experience では、様々な人がそれぞれの才能を生かしたプログラムを提供しています。オンラインでプロから学ぶことができる素晴らしいサービスで、私自身も含めて、侍についてや漫画の描き方についての知識を得ることができ、とても良い経験になりました。
最後のイベントとして、地元チャタヌーガのお店である’’I Go Tokyo”と共同で、日本の夏祭りを開催しました。このイベントでは、日本の祭り でお馴染みの焼きそばやたこ焼き、ヨーヨー釣りや金魚すくい、盆踊りなど、日本の伝統的な夏祭りをチャタヌーガで再現することができました。計画期間が短かったにもかかわらず、多くの人のサポートと力量で大成功を収めることができました。

私の2年間では、スーパーバイザーが2回変わり、ホストファミリーも2 回変わり、パンデミック、一時帰国、再渡米など本当に盛りだくさんでしたが、どれも自分が成長できる経験でした。
最後に、2年間にわたり活動を支えて下さった、テネシー大学チャタヌーガ校の皆様、周辺地域の皆様、そしてコロナ禍にもかかわらず、プログラム存続のために奮闘していただいた国際交流基金、ローラシアン協会のスタッフの皆様に感謝の意を表したいです。そしてプログラムの更なる発展を願っております。
山あり谷あり、草の根ボランティア活動の2年間
私の派遣されたクラークスビル・モンゴメリー郡(CMC)は、テネシー州の北西部にある人口約20万人の小都市で、私が所属したオースティン・ピー州立大学(APSU)と、フォート・キャンベルというケンタッキー州に跨った軍事基地があります。APSUは学生数1万人の地方の中規模大学で、地元の学生が大多数を占めており、外国人留学生は2%足らずと国際化は遅れていました。私は現地赴任前に、スーパーバイザーのランズ准教授から「APSUと現地日本企業との関係を作りたい」という、通常のJOIコーディネーターの業務とちょっと異なった課題をもらいました。このため、現地に赴任してまず最初に手掛けたのは、州内の日本企業の分布を調べてマップを作ること、次に近隣の企業とコンタクトを取り、企業訪問して大学との連携のニーズを探ることでした。赴任後数カ月はこの活動は順調に進むように思われましたが、企業のニーズが次第に明らかになり、大学との連携を具体的に検討する段になって、大学側に企業ニーズに合わせたサービスを提供する準備がないことが明らかになり、この試みは残念ながら半年余りで挫折することになりました。

このため、JOIコーディネーターの活動は、本来の文化交流・普及の仕事に軸足を移すことにしました。まず大学内や近隣コミュニティーで、「日本語・文化クラス(Japanese Language/Culture Class(JLCC)」を実施して、日本語や日本文化に関心を持つ人々を増やしていくことに重点を置きました。
手始めに大学内で、JLCCを毎週1回のペースで開き、日本語専攻の学生を対象に楽しめる課外授業を実施しました。AV教材を多用した授業は好評で、2017年9月から2018年4月まで27回に亘って開催し、これで手応えを掴みました。

5月に大学が夏期休暇に入ったので、CMC公立図書館と相談して、JLCCのコミュニティー版を同じく週1回のペースで開催することにしました。大学での経験を基に日本文化紹介に力を入れて、8月まで12回に亘って日本語と日本文化紹介のクラスを実施しましたが、10代から70代まで幅広い参加者が常時15~20人出席して、大変好評でした。
これに味を占め、公立図書館も継続して支援してくれて、2018年9月から12月まで、11回にわたり「折り紙クラス」を実施しました。クラス内容は、全部で50種類を超える折り紙の実習と共に、折り紙を応用した科学技術や、医療技術、建築、芸術、宇宙科学などのビデオを見せて、折り紙を取り巻く世界の広さと楽しさを伝えるように努めました。
JLCCのコミュニティー・クラスは、その後も公立図書館の積極的な支援と参加者の熱意に支えられて、2019年1月~4月(春学期)、5月~7月(夏季休暇)と帰国直前まで継続し、通算して44回のクラスを数え、JOIコーディネーターのアウトリーチ活動の中心になりました。
1年目に準備して、2年目に実現に至った成果の一つは、CMC内の高等学校において、新規に日本語コースをスタートすることができたことです。私が赴任した時、APSUの日本語コースは、開始から5年目で存続の危機に瀕していました。財政的理由から日本語講師を常勤で雇用するのが難しく、講師が離職の寸前にあったのです。これを救ったのが、スーパーバイザーの発案による高等学校と大学が共同して1人の講師を雇用するという妙手でした。当時CMCの教育委員会は、高等学校で日本語の授業を開始することに関心を持っていましたが、大学からの提案により語学教師を共同で雇用することで、経済的負担を軽くしながら授業を開始する目途が立ったのです。JOIコーディネーターの貢献は、国際交流基金の「日本語講座講師給与助成」を申請して獲得する橋渡しをすることで、日本語コース継続・新規開始の後押しをしたことでした。

APSUと日本の大学との交流の推進は、JOIコーディネーターの仕事としても重要でした。2018年2月に日本の広島県立大学から、10名の語学研修生が2週間来校した際、日本語専攻の米国人学生たちとの交流プログラムを企画・実施し、高い評価を頂きました。その後、立教大学、石川県小松大学、北鎌倉女子学園高校などとコンタクトがあり、将来の本格的な協力協定締結や学生の交換等に向けて、APSUの国際学生センター内に「日本戦略グループ」が形成されましたが、JOIコーディネーターはその一員として、関係者間の情報共有やESLプログラムの作成・改善等に間接的に貢献しました。

その他、JOIコーディネーターがこの2年間に参加した企画やイベントは数多くあり、限られたスペースに列挙できませんが、そのつど新しい人間関係が広がっていく楽しさを堪能した2年間でした。
最後に、この2年間JOIコーディネーターを受け入れてくださったAPSUと、スーパーバイザーのランズ准教授、CMC図書館の皆さん、ナッシュビルの日本総領事館の方々及びお世話になった数多くの友人たちに心からお礼を申し上げます。
チャタヌーガでの2年目の挑戦
1年目に続いて、2年目の活動もまずパートナー校であるチャータースクール、私立の小学校ブライトスクールを中心に、アウトリーチを行いました。特に2年目は1年目のネットワークを活かして活動範囲をナッシュビル、メンフェス方面にも拡大してより多くの学校を回ることができました。ナッシュビルまでは片道2時間半、メンフィスまでは片道6時間かかりました。また2年目をいうことで前年出会った生徒の成長をみることができとても励みになりました。
また2年目は新しいチャレンジとしてブライトスクールと茨城県水戸市にある私立英宏小学校との交流を推進し、クリスマスカ-ドの交換やビデオ交流をしたあと、6月にブライトスクールより希望者13名を連れて日本での10日間のジャパントリップを企画しました。生徒達は日本のご家族の家に1週間ホームステイをし、日本の学校を経験したり、東京一日観光ツアーを体験したりしました。また引率で本校の校長のOJモーガン氏も日本に来日し、今後もこの交流を継続予定です。

また8月には日本から15名の中学生を受け入れました。どちらの子供たちも新しい体験を沢山して、これからも友好を深めていって欲しいと思っています。

大きなイベントとしては、お弁当ワークショップとアジア・デーでの”Walk in U.S., Talk o n Japan” (「歩こうアメリカ、語ろうニッポン」)プログラムの受け入れがありました。お弁当ワークショップはボストンよりフードコーディネーターのデブラ・サミュエルズさんにテネシー大学チャタヌーガ校にお越しいただき、日本人のボランティアの方々の協力の下、当日40名分の日本のお弁当を作成するというワークショップを行いました。
アメリカでの日本食の人気もあって、あっという間に定員に達したイベントでしたが、3日間かけてお弁当の中身をすべて手作りし、本ワークショップでは実際に参加者がそれぞれのお弁当を作るという内容でした。目にも鮮やかな日本のお弁当にどの参加者もとても満足そうでした。
またデブラさんのとても温かいお人柄に私を含め、ボランティアで手伝った皆さんがファンになりました。このように現地の有効な人材を活用し、日本のいいところを現地の人々にアピールすることで多くの日本のファンが増えていくように感じました。また食べ物は抵抗無く新しく文化に入っていく入り口としてとても有効だと感じました。
このイベントをきっかけに現地の日本人のご家族、駐在者を中心に“チャタヌーガで日本文化を伝えるチームT E A M Chattanooga”を結成し、その後色々な活動を手伝ってくれる仲間ができました。


また、「歩こうアメリカ、語ろうニッポン」のイベントは内閣府が企画しているもので、今回は齋藤元大使をチームリーダーとして5人の専門家がテネシー大学のアジア・デーにやってきました。参加した大学生、教授、地元の方々総勢80名を5つのグループに分け、それぞれのスピーカーの方達とディスカッション形式で対話をしてもらいました。日本の経済のことから女性の地位の問題、日本の大学生の生活などバラエティーに富んだメンバーとの対話は、大学生にとってとても刺激になったと思います。
また2年目もアジアプログラムではテネシー州の中学、高校の社会の先生達のためのワークショップを冬休み2日間に渡って開催しました。私の担当は日本の昔遊び(ふくわらい、年賀状作り、百人一首など)、また風呂敷の使い方の講座、日本人の高校生の生活などをレクチャーしました。今後もこの先生方が授業の中で少しでも日本のことを紹介する折に取り入れてくれたらいいなと思っています。
2年間は振り返ってみるとほんとにあっという間でした。天職という言葉が当てはまるかわかりませんが、JOIの活動は私にとって毎日がとても楽しくどの活動もとても心に残っています。普段は全く出会うことのないであろう人口1,000人の町のmiddle of nowhereと呼ばれる土地にすむ中学生と、実際に一つの教室で顔と顔を合わせて授業ができること。目の前で日本の文化に目を輝かせて待っていてくれるアメリカの生徒さんたちがいることはとても幸せでした。このチャタヌーガというテネシー川のほとりのとても美しくかわいい街で地元の人たちにとても温かく迎えていただいたこと、また多くの方が日本に興味を持っていてくれることをとても嬉しく思います。
このような機会を与えてくださったローラシアン協会、国際交流基金の皆様に心から感謝申し上げます。また2年間見ず知らずの私をホームステイで受け入れてくれたモーガンファミリーと、温かく職場の一員として受け入れてくれたテネシー大学チャタヌーガ校のアジアプログラムに感謝いたします。
今後はまた2年間本大学に残って大学院生として日本語のクラスの指導とアウトリーチの継続をすることになっています。地元の人たちと協力しながらチャタヌーガでもっと日本のことを好きになってくれる人が増えるように、これからも楽しく活動できたらと思います。
メンフィスの心の友 ―草の根交流の終了報告
日本文化を紹介するというJOIの活動の中で、多くの人に働きかけてきた私は、同時に、多くの人の優しさにふれるというすばらしい体験をしてきました。2年間の活動が終了して日本へ旅立つ日、夜が明けたばかりだったにも関わらず、10人近くの人が、「あなたはレジェンド(伝説の人)よ」「必ず、いつか戻って来てね」という言葉とともに、空港に見送りに来てくれました。こういう、人の優しさに支えられて、私のメンフィスでの活動があったのだと、胸を熱くしました。
名残惜しみながら米国を離れた私の一つの慰めは、私の去った後にも多くの人達が、日本文化の紹介という種を育てようとしてくださっていることです。テネシー州日米協会には新たにメンフィス支部が発足し、そのプログラムマネジャーの方が、様々な活動を引き継いでくれることになりました。私が講師をしていた茶道教室も、「The Way of Tea in Tennessee」という会によって続けられることになりました。そのメンバーは、ボランティアとして初めからお手伝いしてくださった方々や、熱心に毎週土曜日のお稽古に通って来てくださった方々が中心です。さらに、所属先の大学で開催していた書道教室も、日本企業に勤める方の奥様によって、継続して開かれることになりました。また、8年前から途絶えていて、JOIをきっかけに息を吹き返した地域の日本祭りも、今後定期的な開催が約束されています。日本文化にかかわる活動が、多くの人々によって求められ、メンフィスに着実に根を下ろし始めたことを本当に嬉しく思っています。
私は幸運にも2つの出会いに恵まれました。一つはメンフィスに着いた翌日の夜に参加した、ボタニックガーデン(植物園)のキャンドルライトツアーでの出会いです。生け花インターナショナルの支部の方々による生け花がエントランスホールに飾られ、たくさんの着物が美術品のように優雅に展示されていました。広い日本庭園を説明付きで巡るツアーの前に、私は、驚きの目で生け花と着物を見つめていました。生け花の美しさもさることながら、着物の品の良さ、そして独特の展示の方法に感心していたのです。その時、一人の女性が自己紹介をしながら、「このような着物の展示の仕方は、日本文化に対して失礼ではないでしょうか」と尋ねてきました。「日本の古い着物がここで生き返ったように感じ、その美しさを再認識しているところです。」と答えたところ、大変喜んでくれました。この女性こそ、私のメンフィスでのあらゆる日本文化紹介活動を支えてくださり、私の心の友の一人となった人だったのです。

彼女は大学で芸術を教えると同時に、趣味でダウンタウンに着物の店を構えていました。もともと退職を目前にした彼女が、その後の目標を日本文化の勉強においた矢先に、私がメンフィスにやって来たのです。折り良く、ボタニックガーデンから何か芸術のワークショップを開いてほしいと頼まれた彼女は、私にその機会を譲ってくれ、月1回の日本文化紹介講座を開くことになりました。書道、折紙と風呂敷、日本のデコレーション・門松、能、日本の家庭料理、日本のコミュニケーションとエチケット、俳句、源氏物語、茶道、と日本の様々な側面を紹介し、コミュニティーの方々に恒常的に参加していただく活動にすることができました。
もう一つは、メンフィス大学でアジア演劇を専門とする先生との出会いです。彼女は、大学のウェブサイトに掲載された私の経歴を見て、「能」のプレゼンテーションをしてほしいと連絡してきました。長年趣味として習っていた謡(うたい)を米国で披露する機会が訪れようとは思ってもいませんでしたが、パワーポイントで能の歴史と背景を伝え、謡のパーフォーマンスをしました。すると学生たちは、能に対する興味と関心を深め、本物の能の上演が観たいという夢のような要求をしてきました。その思わぬ反応の大きさに驚きながらも、演劇科の先生、私のスーパーバイザーの日本語科の先生と一緒に、どうしたら上演ができるか模索する日々が始まりました。学生たちの夢が私たちの夢となったのです。
2009年1月、観世流の浦田保浩氏と2人のシテ方、4人の囃子方、そしてスタッフの総勢8人をお招きして、ついに夢が実現にいたります。国際交流基金、メンフィス大学、日米協会、メンフィス商工懇話会、在ナッシュビル日本国総領事館、ジョージア大学、ベルモント大学など多くの組織の援助を受け、さらに演劇科、日本語科を中心とする学生たちに支えられて、米国南部で初となる能公演でした。また、準備中に起きた様々な困難を克服する過程で、多くの人と心から信頼できる関係になりました。この方々も私の心の友となったのです。
このような一大イベントを実行する力となったのが、その前秋に開催したボタニックガーデンでの日本祭りでした。裏方となって支えてくれたボランティアの方々、そして、祭りに参加してくださった多くの方々が、観たこともない「能」の公演に、日本文化だからと関心を持ってくださったのです。まさに、2年間の活動を通じた人と人とのつながりが、少しずつその輪を広げていったと思われます。JOIの活動の中で私自身が得た大切なものは、文化が結びつけてくれた人種を越えた人とのつながりだということができると思います。

現地での活動
テネシー州は87%の人が州内で一生を過ごすと言われるほど住みやすい土地柄ですが、反面、他の文化や価値観に無関心になりがちです。州の中心に位置するマーフリースボロは中部テネシー州立大学(MTSU)の学生2 万人を擁する人口6 万人の大学町で、1980年代に隣接のスマーナ市に日本の自動車産業が進出して、日本との関わりが生まれました。
「日米プログラム」はMTSU経済学部の川人清教授がダィレクターを兼任され、私はフルタイムアシスタントとして派遣されました。規模にしては目一杯の活動をしていましたので、メールによる公演チケット配布やターゲットグループを絞った参加者募集などで事務の効率化を図るようにしました。
また、地域の諸団体での日本紹介活動を担当しました。1年目は子供博物館での折り紙講習会、小学校での学校生活紹介から大学看護学部での日本のお産事情の話まで、内容も対象も多岐にわたるものになりました。

着任早々、地域在住の日本人有志の方々から思いがけずボランティア協力の申し出があり、着物ショー、日本祭りでの茶道や習字体験コーナー、大学生の日本語会話の相手など、スタッフだけでは実現できないプログラムを提供することができました。2年目は教育現場に活動先を絞り、総領事館からも支援を受けて小学校の先生向けに日本紹介の教材セットを作り、中部テネシー州地域の先生方に配布して講習会をしました。
昨今はインターネットでも情報を入手できますが、異文化理解促進には「人と人とが直接出会う大切さ」を実感しました。中でも印象に残った行事は2003年の夏にシニアセンターと共催した「盆踊りファミリーダンスフェスティバル」で、1ヶ月前からボランティアが日米の踊りを教えあって交流を深め、当日は子供から学生・お年寄りまで200人以上が参加しました。フィナーレには『エレクトリックスライド』のステップで『東京音頭』を踊りました。未だに第二次世界大戦の敵国の印象を抱くお年寄りと若い日本人との「出会い」が「何か」を変えました。この イベントは日米のボランティアに引き継がれ、他国のグループも加わった地元行事となっています。

将来へむけて
帰国当初はJOIの経験がどのように今後に活かされるのか見当がつかず、寂しい気もしましたが、かつてボランティアをした難民センターから声が掛かり、現在は社会生活適応指導講師として、4ヶ月の日本語学習を終えたインドシナ及び条約難民の方たちに、日本に定住する上で必要な日本の社会事情や身分条項の手続きなどについて、時に通訳を介しながら教えています。様々な事情で母国を脱出して日本に定住することになった方々が安心して生活していけるようにお手伝いする仕事を大切に思っています。 「異文化に接することで視野が広がり、互いの違いを尊重する態度が養われ、世界が誰にとってもより住みやすい場所になる」という理想が実現できるように、これからも与えられた場所でチャレンジしていきたいと思います。