テキサス州 Texas

ホーム派遣対象地域テキサス州

州の紹介

ジョンソン宇宙センター(ヒューストン)

全米国土面積第2位を誇るテキサスは、文化的にも地形的にも多様性に富み、農業やオイル産業で発展を遂げた州です。1836年から1845年の独立国家を経て、1846年に28番目のアメリカ合衆国州として併合されました。サンアントニオでは、テキサス革命で歴史的に有名になったアラモの歴史に触れ、市の中心地に位置するリバーウォークでは食事やリバークルーズが楽しめます。主要都市ヒューストンにある宇宙センターでは、NASAの最新技術に触れたり、ロケット内部を見学できたりと心躍る体験ができます。ダラスのディーレイセンター内シックス・フロア・ミュージアムでは、ジョン・F・ケネディ大統領の功績と半生について学ぶことができます。

リバーウォーク(サンアントニオ)
ダラスの街並み

この州に派遣されたコーディネーター

榊原 ひと美 Hitomi Sakakibara
第20期 コーパスクリスティ/テキサス州立アジア文化博物館・テキサスA&M大学

京都府出身。オーストラリア留学後、留学先で知り合った友人が来日した際に市内を案内したのがきっかけで、京都市及び全国通訳案内士の資格を取得。主な就業とは別に、地域に密着したフードツアーやウォーキングツアーから活動を始めるも、新型コロナウィルスの影響を受け仕事が激減。そんな中、来日されるのをただ待っているのではなく、自分から米国に赴き地域に密着して様々な活動するJOIを知り、これまでに学んできたことを活かしつつ、滞在中にアメリカの事についても積極的に学び、帰国後の活動に生かしたいと思い応募。

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嶋口 仁菜 Nina Shimaguchi
第17期 ヒューストン/アジア・ソサエティ・テキサス・センター
7歳で初めて話した英語がネイティブの方に伝わった感動から、言語や異文化に興味を持ち始める。大学では国際援助や異文化を専攻する傍ら、留学生に日本文化や日本語を伝える活動を行う。卒業後はホテル勤務を通し、様々な国の人に日本を紹介。もっと時間をかけて日本文化を伝えたい、日本に興味を持ってもらうきっかけを作ってみたいと思い、JOIへの応募を決意。

私を成長させてくれた草の根交流

車の窓から見える高く掲げられたアメリカの国旗、片側6車線もあるハイウェイ、英語に混ざり聞こえてくるスペイン語。2年前のその日、私は目に見える物、耳に入る物全てに感動し胸を躍らせていました。その胸の中には、「現地の方々の訪日理由を作りたい」「私を通して日本の何かに興味を持ってもらいたい」という思いを秘め、テキサスの大地に足を踏み入れました。

アメリカで過ごした2年間で私は人として大きく成長できました。現地にて各種手続きを済ませ生活する上で、日本文化を深く知り、外から見た日本を知り、そしてアメリカ社会を知る。それを日米両方の人々に話している間に、更に知識が増え、新たな方向から物事を見ることが出来るようになりました。

荒野にカウボーイを連想させるテキサス州。州の面積は日本の約2倍。人口も全米第4位というその州の最大都市、ヒューストンには荒野のイメージとは異なり、街の中心地にはビルが立ち並び、医療と石油化学産業が盛んな、今勢いを増している都市です。街の中心とメディカルセンターの間には19程の美術館が集まるミュージアム地区があり、その中に私が所属するアジア・ソサエティ・テキサス・センター(ASTC)があります。アジア・ソサエティは全世界に13拠点を持つ団体で「欧米でのアジア圏文化の理解促進」をミッションに活動しています。その中でもASTCは独自のビルを持つメガセンターの一つで美術品の展示を含む、文化・教育・芸術・政治の分野で年間120以上ものイベントを行うNPO団体です。美術館ともなるホストサイトを見学させてもらった時には、自身がここで働くとは思えない程広く美しすぎる建物を目の当たりにし、夢見心地でした。

活動し始めた時は、学校などの活動先があまり見つからない日々が長く続き、焦りと不安を感じていました。それでも、先輩に頂いた「一度アウトリーチが入ると忙しくて準備に時間が取れなくなるから、今の間にしっかり準備をしておくといいよ」というアドバイスのもと、プレゼンテーションをたくさん作りました。そうしている間に1つの活動がまた1つ、2つと増え、私のJOIの活動が徐々に周知されるようになりました。一度訪問した小学校の先生が、JOIについて学校間の掲示板に載せてくれた事もあり、複数のアウトリーチ依頼が一気に来た事もありました。

小学校でのアウトリーチは純粋な子どもたちとの触れ合いが魅力的です。プレゼンテーションを聞いた後、キラキラした目で自分の持っている漫画を見せて「これは日本のものなの?」と質問してくれる小学生。「そうだよ!」と答えると、「わぁ!すごい!じゃあ、これは?」と身の回りの日本生まれのものをもっと見つけたい、と言わんばかりに興奮する子どもたちの姿や、一緒に作った折り紙や初めて書いたカタカナの自分の名前のしおりを大事そうにしまったり、鞄につけたりする子どもたちの姿は、いつも私にまた次なる活動の活力を与えてくれました。

アウトリーチの年齢層を広げたいと思っていた頃にうまく繋がることができたのは、地域の図書館でした。それによって、子どもから大人まで様々な年齢層をターゲットに活動の幅を広げることができ、アクティビティ内容も書道や茶道、染め紙やゲーム、そしておにぎりや巻き寿司など、学校では実現しにくいアクティビティを紹介する事ができました。大人の方も「これはどこで買えるの?」「日本に行きたくなった!」と興味を引き出せたと分かる言葉を頂く度に、自信が持てやりがいを感じていました。

ASTC内でも多くのイベント企画・運営・コーディネートをさせて頂けたのは私にとって大きな学びの機会でした。春休みの5日間、在ヒューストン日本国総領事館と共同で日本の春をテーマにイベントを行いました。毎日日替わりの工作と日本アニメ映画の上映に加え、お弁当やおにぎりワークショップを行い大盛況でした。その他には、歌舞伎メイクアップやお弁当ワークショップ、運動会イベントなどを実施しました。特に運動会イベントでは、元々チームがあって成り立つものという概念を覆し、各種目をそれぞれのグループ内又は近くにいる方との対戦で楽しんでもらえるように工夫しました。イベントが上手く行くか不安に思っていた時、「やった事のないイベントだから結果は分からない。でもやってみる事が大事だし、やってみてから学べる事があるはずから大丈夫!」とスーパーバイザーから背中を押してもらい、当日参加者からも「こんな楽しいイベント初めて!」との言葉を頂け、成功を収めることができました。

この言葉に助けられたように、私が2年間JOIコーディネーターとしてここまでこられたのは、周りの方々の温かいサポートの数々があったからこそです。最後になりましたが、このような貴重な機会を与えて下さった国際交流基金、ローラシアン協会の皆様、2年間私を家族のように受け入れて下さったASTCの皆さん、在ヒューストン日本国総領事館、HCPL図書館の方々、そしてお世話になった多くの友人たちに心から感謝します。本当にありがとうございました。

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奥 知奈津 Chinatsu Oku
第16期 サンアントニオ/テキサス大学 サンアントニオ校
高校2年時、オーストラリアで交換留学を経験。異文化交流の大切さに気づき、更に英語を学ぶために大学に進学。夢だった「英語を使ってバリバリ働く!」を胸に旅行会社に就職し、3年間訪日旅行を担当。しかし、働いているうちに通訳ガイドを手配するのではなく、自ら外国人と交流し、日本文化を伝えたいと思いJOIへの応募を決意。

Thank you, San Antonio!

新卒で入社した会社を辞め、バタバタと準備を進めた2017年の夏をとても懐かしく思います。JOI16期生の同期とは成田空港で待ち合わせをしました。保安検査場前まで見送りに来てくれた母とお別れするときは、目の前に広がる未知の2年間がとても長く感じ、しばらく会えなくなると思うと一気に寂しくなりました。またアメリカでの新たな挑戦に対する期待と不安が重なり胸がいっぱいいっぱいになったのを今でも覚えています。帰国し地元仙台で変わらない家族や友達と再会してホッとしたと同時に、JOIコーディネーターとして活動させていただいた2年間を思い返すと、本当に貴重な出会いと経験を頂いた充実した日々だったと改めて感じます。

テキサスは日本の約2倍の面積がある大きな州で、サンアントニオ市は全米で7番目に人口が多い都市です。体感的には5~10月は夏で、7~9月は平気で毎日40度近い気温になります。市内中心部にはリバーウォークやテキサス独立戦争の跡地であるアラモ砦があり観光都市としても知られています。メキシコの国境から近くヒスパニック系の方が半分以上を占めており、公共の場ではスペイン語が日常的に使用されていたり、カラフルな装飾がとても賑やかな雰囲気を醸し出しています。テキサス人はスポーツが大好きですが、その中でも私は漫画「スラムダンク」のファンだったのでNBA(男子プロバスケットボールリーグ)の試合をよく観戦に行きました。また市内にはトヨタ自動車の大きな工場や米軍基地がある関係で日本人の方たちも多く暮らしています。約5~600人の日本人が住んでいると言われ、思い出せるだけで10以上は日本食レストランやラーメン屋さんが思い浮かびます。

配属先の通称UTSAでは3万人以上の学生がおり、そのうち日本語を履修している生徒が200名弱いました。初めの頃は、地域の学校や図書館とのコネクションを作るのが難しかったので、大学で学生向けに日本文化についてプレゼンテーションをしたり料理クラスを主催したり、ジャパニーズクラブという学生サークルを手伝ったりという形でJOIコーディネーターとしての活動を始めました。すぐに色々なご縁もあり小中高や図書館、地元のイベントやフェスティバルにアウトリーチに行くようになったのですが、大学での活動は今となってはいい予行練習になっていたなと感じます。まだ上手く英語で説明出来なかった私に、意味を汲み取ってくれた学生が代わりに説明してくれたりして、少しずつ学んで自信をつけられました。お陰でたくさんの学生とも繋がり、のちにボランティアとしてイベントを手伝ってくれたり、プライベートでも出かけたりと友達の輪も広がりました。

私が在籍していたオフィスはサンアントニオ日米協会との繋がりも強く、毎年恒例の日米協会主催「秋祭り」にも参加させていただきました。また書道教室を協力して開催したご縁もあり、念願だった書き初め大会のサポートを頂きながら2年連続で開催することが出来ました。毎年、30名近い中・高生と大人の方の参加があり、日本文化に対する関心の高さが見られました。課題のお手本を元に制限時間内で作品を提出するという、書き初め大会が持つ独特の雰囲気と緊張感をアメリカでも再現できたことをとても嬉しく思います。審査員をお願いした日本人の方々も参加者の集中力の高さと初めてとは思えない書の腕前に驚いておられました。

2年目の春、料理が好きだったわたしはJOIの集大成として国際交流基金の助成金を頂きながら大学でシリーズものの日本食イベントを開催することにしました。スーパーバイザーとオフィスの全面協力を得ながら映画上映、料理教室、先生向けのワークショップ、SNSでの弁当写真コンテストなど様々なイベントを主催しました。中でも印象深いのが、おにぎりとお弁当を通して食に関する教育を行っているTABLE FOR TWOという非営利団体とコラボレーションした弁当ワークショップです。代表の方のプレゼンテーションでは日本の「もったいない」精神や食の重要性を改めて学びました。またプロのシェフによるデコ弁のデモンストレーションは目から鱗のテクニックばかりで見ていてとてもワクワクして、参加者の目も輝いていました。参加者から市内の日本食スーパーはどこにあるのか?もっと和食について学びたいなどフィードバックを頂き準備は大変でしたがとてもやりがいを感じました。

JOIの活動を通し、日本の文化、習慣が持つユニークさ、素晴らしさを再認識することが出来ました。それと同時にアメリカや他の異文化に対する理解や興味も深まったと感じます。サンアントニオで経験したことはここに書ききれませんが、公私ともに大変お世話になったスーパーバイザーには感謝しきれません。また、JOIという素晴らしい機会を与えてくださった国際交流基金日米センターとローラシアン協会に感謝でいっぱいです。この2年間で得た数えきれないほどの出会いや経験は私の人生の宝物です。本当にありがとうございました!

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熊代 智恵 Tomoe Kumashiro
第10期 サンアントニオ/テキサス大学 サンアントニオ校 東アジアインスティチュート
大学卒業後、教育現場で3年間勤務後、JOIへの応募に至る。

日本を通じて人と人がつながっていくこと

「日本語を通じて、人と人とがつながってほしい」という思いから始めた日本語会話クラブの運営も、無事2年目を迎えることができました。それもこれも、サンアントニオ在住の日本人ボランティアの方々のおかげで、テキサス大学サンアントニオ校では週2回、また、他大学でも週1回会話クラブを始めることができたのです。学内の学生に限らず、他大学で日本語を学習している学生や日本に興味のある地域の方の参加者も増え、当校は「Japan Town(ジャパンタウン)」と呼ばれるようになりました。夏期休暇中の会話クラブの開催の要望も多々あり、また学期中参加することができない地域の中高生も参加できたらと思い、夏休み中にも通常通り、会話クラブを行っています。中高生や地域の人など、新たな参加者が加わり、日本語会話クラブは益々活発になってきていることと思います。

私の帰国後も引き続き、会話クラブを盛り上げてくださっているのは、日本人ボランティアの方々です。日本語のみならず、日本で現在流行っていること、若い人に人気のある物や言葉など、大学の日本語の授業では学ぶことのできない「今の日本」を共有していると同時に、ボランティアの方々自身も「もっと学びたい・知りたい」という彼らの思いに応えようと、色々なアイディアを毎回会話クラブへと、運んできてくれています。

「Savor Japan」という全4回シリーズのイベントも、国際交流基金の助成金のおかげで、実施することができました。「生と死」が大きなテーマであり、日本人がどのような思いで、死者を弔い、生きること・人が成長していく過程を祝福していくのかということを中心に、日本の文化・行事・習慣等を交えて、多くの参加者と学びあうことができました。また、大学生を中心に結成した「ソーラン節チーム」では、様々な国籍の学生たちが集まり、1年間で計4回も踊りを披露する機会に恵まれました。独特の雰囲気のあるソーラン節を地域の人々に見てもらえたと同時に、お互いをあまり知らなかった学生たちが、いつの間にか一つの日本チームとなり、たくさんの笑顔で練習している姿を見ることができたことが、何よりの宝物です。

日本語サークルも結成2年目となり、「夏祭り」を開催しました。まず、日本のお祭りには欠かせない屋台なのですが、どうやって屋台を切り盛りしてくれる人を見つけられるかが、祭り自体の実施の有無を大きく左右していた問題でもありました。そこで、一番に心に思い浮かんだのは、2年間日米協会を通じて出会ってきた人々です。大きな機材の搬入作業、準備や後片づけ等について考えると、屋台の運営を引き受けてもらうことは困難だろうと思っていました。しかし、「いいよ」「IIYO」とメンバーが笑顔で引き受けてくれた、あの瞬間のことを私は今でも忘れることができません。

日本で生活をしていたら気づくことのできなかった、人と人とのつながり、そして草の根レベルで地域の人々と共に、日本を感じていきたいという同じ思いをもった人々の協力とその優しさに、私は言葉には表すことができない、温かい気持ちで一杯でした。食べ物の屋台は大成功、そしてお祭りに欠かせないゲームの屋台も、盆踊りも大成功!!会場は、子どもから大人まで、様々な国籍の方の笑顔であふれかえっていました。

2年目の学校訪問では、日本の文化だけではなく、文化の奥にある日本人の心も感じられるよう、授業の中に色々な要素を積極的に取り入れていきました。特に依頼の多かった図工の授業での書道の紹介。クラス中が静まり返り、児童・生徒一人一人が机の上にある一枚の紙一点を見つめて、真剣に字を書く姿は、とても微笑ましい光景でもありました。今までに一度も、図工の授業で作品作りに参加したことがなかった児童が、書道の作品を書き上げたことがありました。日本の何かが、書道の何かが、児童の心を動かしたのではないかと考えると、JOIの活動は、本当に意味深いものだと感じずにはいられませんでした。

図書館、病院や地域での活動、そして日米協会での活動も含め、1年目があったからこそ、2年目はより広く深く、行うことができたと思います。特に2013年はサンアントニオ市と熊本市との姉妹都市25周年記念イベント等、大きなイベントもあり、新たな課題や試みにも挑戦することができたことは、2年目だからこその結果だと思います。どこにいても誰かに支えられているという温もりを感じながら、サンアントニオで出会う人、一人一人から受け取るパワーを素に、2年間、様々な経験をすることができました。ここでの2年間は、一瞬一瞬がとても大切なものであったことは言うまでもありません。同時に、出会った人、一人一人との何気ない世間話や日本を通じた交流そのものが、「お互いのことをもっと知りたい」と相互に学び合おうとする姿勢=人と人とのつながりを強くしていくことの原点であった、と考えています。

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鶴田 孝俊 Takatoshi Tsuruta
第10期 ヒューストン/ヒューストン日米協会
40年近い銀行勤務を終えた、団塊の世代の一員。アメリカと欧州に駐在経験あり。とはいえ、アメリカは少年時代に見たTVドラマ「名犬ラッシー」以来、いまだに憧れの地。アメリカの若い世代の一人ひとりに語りかけ、日本に親しんでもらおうとそれまでとはちょっぴり違う人生の冒険に取り組んできた。

ヒューストンでのアウトリーチ活動を振り返って

アメリカでの二年間のJOI活動を終えた今、一番強く思い出すのは、自分のプレゼンテーションに参加し、熱心に聞いてもらった人たちの輝いた目です。その多くは小学生から高校・大学に至る学生の皆さんを中心に、保育園児からシニア層に至るまで、テキサスに住む地元の皆さんでした。多くの場合一回限りの一時間前後のプレゼンにすぎませんでしたが、個人としての触れ合いを通して、何かしら日本に対する興味や好意を感じていただけたように思います。

プレゼンはできるだけ少人数で、20人からせいぜい50人くらいを相手にするようにしましたが、大抵は質問攻めになりましたし、わずかな時間を見つけて折り紙に割くと、間違いなく沸き立って大はしゃぎになりました。日本での学校生活や、日本の四季の美しさや季節感、あるいはお茶やお花といった日本の伝統文化など、どんなテーマにも旺盛な好奇心を見せてくれました。

この二年間は個人的にも、楽しく充実の二年でもありました。これまでほぼ40年も企業人として働き詰めでしたが、アメリカの人たちと、そして世代が異なる、企業以外の市井の人たちと交流しえたのは、言葉以上に感動的な体験でした。学校訪問以外にも、ジャパンフェスティバルや様々なイベントを共同して行いましたが、そこで出会った仲間たちとの交流も、人生の大きな1ページを作ってくれました。

活動の基本は二年目も学校訪問などのアウトリーチ活動であることに変わりはありませんでした。学期の初めに各校に網羅的にメールを出して自らを売り込みました。その後の先生との打ち合わせの中で、先生の持つすべての学年のクラスとか、場合によっては全校の生徒に十数クラスもプレゼンテーションを行うという了解に達したこともありました。

アメリカの生徒は確かに物怖じしないで反応がいいのですが、クラスによってはシャイであったり、初めての日本人のおじさんをしげしげと見つめたり、様々です。でも何かしら日本を知っていて、プレゼンをするにつれて興味を広げてくれるのが表情に現れると、これほどうれしいことはありませんでした。学校との接点が広がってくると、日本舞踊を見せてほしいとか、書道を教えてほしいとか、具体的な依頼が来るケースも増えてきました。特に学校のインターナショナルデーとか、各国文化の多様性を理解する週間とかがあると、一人では間に合いません。こんな時は日本人女性のグループや太鼓のチームなどとタイアップして、一緒に出掛けることも少なからずありました。

アウトリーチ活動はほかにも、ライブラリー、ロータリークラブなどにも及びました。アメリカのライブラリーは数も多く、様々なイベントプログラムをやっています。しかし幼児から高齢者まで幅が広く、場に合わせてのアドリブに汗を流したことが少なくありません。ロータリークラブはいつも思いもよらない質問が飛び出してきましたが、日本の少子高齢化の展望とか、日本のエネルギー政策など、大人の議論ができたのは楽しみでもありました。ほかにアルツハイマーのデイケアセンターにも数か月にわたって毎月訪問しました。

継続的なアウトリーチ活動を行ったのは大学です。日本に関心を持つ学生を中心に、みんながいろんな企画に乗ってくれました。ヒューストン市内の主だった大学とはそれぞれにパイプができ、日本語お喋り会を立ち上げたり、ある大学では連続日本映画会を行いました。ほかにも書道をやったときは、写真のように初めてでもいきなり難しい字を書いてしまう意欲と好奇心には、感心してしまいました。

ほかにビッグイベントと言えば、二日間で3万人近くの市民が参加するジャパンフェスティバルが、今年も4月に市内の日本庭園を中心に行われ、また日本語スピーチコンテストがヒューストン地区大会、テキサス州大会と2月、3月に行われました。いずれもヒューストン日米協会が中心となったイベントで、長い準備期間を経てそれらが終わった時の感激は言葉に言い表わせません。特にジャパンフェスティバルは、アジア系の住民が数十万人と言われる中で3千人に満たない日本人コミュニティ挙げてのイベントであり、多くの市民に親しまれてきたことは、大きな喜びでした。

二年目にはヒューストン日米協会が久々に資金調達を目的としたゲーラ・パーティを行い、その中で着物ショウとアジア各国の民族衣装のショウを担当したのも、忘れられないイベントでした。 日本の存在感を、ヒューストンの主だった人たちにアピールできた大きな機会でもありました。

いま手元に、訪問した学校の小学生が後日送ってくれた手作りのサンキューカードや、間違いがそのままのスペルで書いた感想文などがあります。これらは2年間の貴重な思い出であり、JOIの修了証書ではないかと思います。最後に、これまでにアメリカで出会ったすべての人たちと、今年で12年目になるJOIプログラムを連綿と実施してこられた国際交流基金日米センターとローラシアン協会に感謝します。

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増田 環 Tamaki Masuda
第6期 サンアントニオ/サンアントニオ日米協会
会社員として米国に駐在し、現地スタッフに対する「日本の文化レクチャー」を実施。帰国後、日本語教師養成講座を受講し、再び日本文化・日本語を伝えたいと思いJOIに応募。

ビバ サンアントニオ

「派遣先:テキサス州サンアントニオ市」という連絡を受けた時、「テキサスに縁があるな」と思いました。テキサス州は、子どもの頃2年近く住んだ所だったのです。幼すぎて、その時の記憶は全くありませんが、テキサス州の位置や形は知っていましたし、両親の友人もいましたので、不安というよりは期待の方が大きかったです。

テキサス州は米国の州のうちで2番目に大きな面積を持ち、その中でもサンアントニオ市は全米第7位の人口を持つ都市です(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)。インターネットやガイドブックでサンアントニオについて調べ、その事実を知った時「都会で良かったなぁ」とほっとしましたが、いざサンアントニオに降り立つと、日本の都会のイメージとはかけ離れた所でした。

生活に慣れると、学校でプレゼンテーションをしたり、イベントに参加して日本文化を紹介したり、日本語クラスを受け持ったり、と様々な機会で日本の文化をサンアントニオの人たちに紹介することが出来ました。接する子どもたちや学生など、皆さんが私のプレゼンテーションを楽しみにしてくださって、終わった後に「サンキュー」と言ってくれるのが、とても嬉しかったです。

サンアントニオ日米協会が参加しているイベントのうち、一番大きなものは毎年6月に3日間開催される「フォークライフ・フェスティバル」への参加です。これには、サンアントニオ中の様々な民族や団体が、それぞれの文化を紹介したり、食べ物のブースを出したりするものです。サンアントニオ日米協会もカレー、焼きそば、焼き鳥、おにぎり等の食べ物のブースを出します。前日には大量の玉葱、人参、ジャガイモ、牛肉等をボランティアの方々と下準備し、当日は朝からテントの準備、調理、販売などをします。日米協会の会員やその他の方々が、ボランティアで3日間食べ物の販売をして、毎年日米協会のブースは大盛況です。6月と言うと、日本では梅雨ですが、サンアントニオは既に真夏。毎日暑い日が続いて気温も上昇し、テントの中にいても熱中症にかかるほどでした。しかし、暑い中、食べたカレーの美味しかったこと。3日間、とにかくお昼に食べられる日本食を楽しみにしていました。ボランティアをお願いするときの勧誘の言葉が「美味しい日本食が食べられるよ」という事からも分かるように、皆が日本の食べ物を本当に楽しみにしていたのです。

駐在員ご家族との交流も楽しかった事の一つです。サンアントニオには、日本の自動車メーカーの工場が多くあり、日本人も大勢住んでいます。駐在員のご家族の中には、『「日本」についてサンアントニオの地域社会に知らせたい。ただ、どうやってボランティア活動に参加すれば良いのか分からない』と思っている方々も沢山いらっしゃいました。お互いの母語を教えあう「ランゲー・エクスチェンジ」や書道クラスの講師、イベントでの折り紙・習字指導等をお願いしたところ、皆さん快く引き受けてくださって、とても楽しんで参加してくださり、その他のイベントにも積極的に参加してくださるようになりました。

また、サンアントニオ日本語補修校でもお手伝いをさせていただき、沢山の子ども達と出会うこともできました。彼らの目はいつも澄んで真っすぐで、とても素直でした。私にもこういう時代があったのだな~と思ったものです。1週間に1度、彼らと一緒に勉強したり遊んだりする事を心待ちにしていました。

休日には様々な場所に旅行もしました。テキサス州は大変広い州ですから、9時間ドライブしても、まだ州内という事もありました。その広大な土地に、砂漠のような地域があったり、湿地帯のような場所があったり、牧場があったり、と気候も地形も大変変化に富んでいます。長距離ドライブで、国立公園を訪れたり、メキシコとの国境を見に行ったり、他のJOIコーディネーターを訪ねたりと、テキサスの大自然を満喫しました。あちこちドライブ旅行に行くうちに、いつの間にか5時間程度のドライブは「短い」と感じるようになっていました。

2年間で、日本にいたら出会う事が出来なかった沢山の人たちと出会い、様々な場所を訪れ、文化を吸収する事が出来た事は一生の財産だと思います。出会った多くの方々との思い出をいつまでも大切に、いつの日かどこかで会えるようにこれからも連絡をしていきたいと思います。

サンアントニオが日本人にもっとメジャーな街となり、日本人が訪れる街のひとつになれば良いなと願っています。

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安藤 良子 Yoshiko Ando
第4期 ダラス/フォートワース日米協会

現地での活動

こされます。私が派遣されたダラス・フォートワース日米協会(JASDFW)はテキサス州のダラス市及び隣接するフォートワース市を活動の対象としています。組織としての歴史が長く、文化交流のプログラムも活発に行われており、経験も豊富なサイトでした。ダラスとフォートワース周辺には多数の日系企業が存在し、永住権をお持ちの方の他にも、数年間滞在される駐在の日本人の方も数多くいらっしゃいます。日米協会の他に、秋祭りの主催や日本語補修校を運営する日本人会もあり、日本人コミュニティーはすでに地域に定着していました。 

大都市ダラスにおいては、日本語を学んでいる方やJETプログラムなどで日本に長期滞在した方も沢山いらっしゃるので、日本文化紹介関連のイベントの際には、突然流暢な日本語で語りかけてきてくださる方やアニメの話をされる方も珍しくありません。その反面、日系企業が集中する地域から少し離れると、アジア人など見たことがないというヒスパニック系、あるいはアフリカ系アメリカ人のコミュニティーなども多く存在します。そのような地区 の学校で日本文化を紹介するプレゼンテーションをする際には、校内を歩いているだけで注目を浴びたり、中国人と間違われ、「チャイニーズ?!」という声が聞こえてくることもありました。文化紹介活動はとても責任のある仕事であり、子どもたちにとって初めて会う日本人が自分であること、彼らがこの先大人になるまで、私の与える印象が日本人全体の印象として続くことを思うと、JOIプログラムの活動一つ一つが、自分だけでなく周囲にとっても貴重な出来事であったと再認識させられます。

私のJOIコーディネーターとしての仕事は、手探りで草の根交流活動を新たに切り開いていくというよりは、既にあるものを改善すること、マンネリからの離脱、これまでに実現できなかったプログラムを手がけることが常に課題となっていました。その中で最も力を入れてきたのがJASDFWの教育部門の要ともいえるJapan-in-a-Suitcase(JIS)プログラム(スーツケースの中に日本で一般的に使われている様々な物が4種類の異なるトピッ クスに合わせて入れられており、それを見せながら日本でどのように使われるかを1回50分ほどで説明するプログラム)でした。2005年の秋から任務終了まで380回以上に渡る発表を行い、子どもから大人まで9,500人を超える方々に、日本の学校生活、家庭での生活、祝日や行事、紙芝居、童謡や折り紙などを紹介してきました。生徒たちの反応が大きかったものとしては、浴衣の着付けのデモンストレーション、鉛筆削りつきの筆箱、和式トイレとウォシュレットの紹介、お年玉について、などがあります。日本では当たり前のように使われている物や「日常」的な習慣が、一歩海外に出ると「非日常」として受け止められるということは、文化を教える側にとっても学ぶ側にとっても、大変興味深いことの一つなのかもしれません。

JISプログラムの改善を目指し組織した教育プログラム委員会では、月に一度会議を設け、委員会を構成する現役の教育者の意見を取り入れながら、JASDFWの文化教育活動における短期・長期的ゴールの設定と課題を明確にしていきました。中でも、委員会のメンバーでもあるダラス学区の小学校の先生を中心として開催されたTeachers’ Workshopは、私の2年間のJISプログラム改善プロジェクトの最終ゴールでもありました。テキサス州では、幼稚園から進級テストがあるため、学校の先生方はカリキュラムを大変重視します。新JISをより効果的なプログラムにするために、JISのプレゼンテーション内容を州が定める教育スタンダードに見合ったものにすることは、先生方の需要とJASDFWの供給のバランスを取る上で、必須だったといえます。

JASDFWにおいての仕事は、JIS関連の業務だけでなく、年に数回行われるフェスティバルやアジア・国際関連のイベントでの文化紹介ブースの企画・運営、その他特別プログラムや会の実施、季節ごとの定例行事の開催、 オフィス内での庶務も含まれます。イベント関連業務で一番大変だった事は、ボランティア集めと管理でした。 新年恒例の餅つき大会など、規模の大きなものになると 70人を超えるボランティアの方の協力が必要となります。70人全員が同じ仕事をするわけではなく、役職もシフトも、各々の都合も異なるわけで、その一人一人とEmailや電話でコミュニケーションを密にしなければなりません。シフト決めはまるでパズルのようであり、役職決めはその方の適性や要望を考慮するなどして、非常に細かい作業が何週間にもわたって続きます。イベント終了後、手伝ってくださった皆さんに感謝の気持ちを伝えると、「楽しかった」、「また声を掛けて欲しい」など温かい反応が返ってきます。このような言葉は大変な仕事の励みとなるだけではなく、ボランティアで知り合ったことをきっかけに、今では良い友達となった方も沢山います。

この2年間で達成した目標や、様々な実績、築き上げた人間関係は、今後どんな道に進んだとしても確かな土台となり、さらに力強く発展していくことでしょう。JOIプログラムに関わる全ての方々、またダラスでお世話になった沢山の方々に、この場を借りてお礼申し上げます。

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派遣対象地域

JOIプログラムの派遣先をご紹介します。
各州の概要や派遣されたコーディネーターの活動報告を掲載していますので、地図をクリックして是非ご覧ください。