バージニア州 Virginia
州の情報
- ハリファックス
- シャーロッツビル
- フェラム
- フレデリックスバーグ

州都 | Richmond/リッチモンド |
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人口 | 863万 |
主要都市 | Arlington/アーリントン Virginia Beach/バージニアビーチ |
主な観光地 | リッチモンド観光 アレクサンドリア マウントバーノン |
州の紹介
「旧自治領の州」と呼ばれるバージニアは、1607年にイギリスからの入植者たちが初めて植民地とした土地で、初のイギリス植民地となったジェームズタウン、植民地の首都だったウィリアムズバーグなど歴史深い州です。独立13州の一つで、1788年に10番目のアメリカ合衆国州となり、現在まで8名の大統領を輩出しています。州都リッチモンドでは、第3代大統領トーマス・ジェファーソンが手がけたバージニア州議事堂が見られます。アレクサンドリアにある初代大統領ジョージ・ワシントンの邸宅や、彼が1754年から亡くなるまで住んでいた邸宅であるマウントバーノンも同州の歴史を垣間見るのに打ってつけの観光スポットです。
この州に派遣されたコーディネーター
かけがえのない時間
赴任初日、ベッドとテーブルがぽつんと置いてある部屋にスーツケースをせっせと運び、少し落ち着いてから部屋を見渡した時、「あぁ、今日から始まるんだ。」という気持ちになったことを思い出し、今とても感慨深い気持ちになっています。赴任地であるバージニア州フレデリックスバーグ市は人口約25,000人、派遣先のメアリーワシントン大学は在学生数約4,400人の比較的小さな学校です。印象的だったのはレンガ造りの建物と、緑々した木々が連なるキャンパスのメイン通りです。1つ1つの建物が大きく、校内を歩いているというよりは街を歩いているような不思議な感覚になったのを覚えています。そんなキャンパスにも慣れ、学内と学外の両方で様々な活動をしました。JOIコーディネーターの醍醐味は、一期一会の出会いが数え切れないほどあることです。
最初に始めた活動は、学内の日本語クラブでした。日本語を初めて話す人向けの初心者の日とクラスなどで習ったことがある人向けの中級者の日を設け、週2回行っていたのですが、始めの1ヶ月は数人しか人が集まらなくて困った日もあったことを懐かしく思います。次第に口コミで広がるようになり、学内の至る所に貼ったフライヤーをみた人が集まるようになりました。学生たちからは、「大学に入る前に日本語のクラスを受けていたけれど、これまで実践する場がなかったから嬉しい」、「独学で学んでいたから、一緒に勉強する仲間ができてやる気がでた」などの声をいただきました。後にクラブで知り合った学生同士が日本語を勉強するために活動の日以外にも自主的に集まっていたことを知り、嬉しくなりました。クラブで初めて日本語に触れた学生が留学に興味を持ってくれ、日本へ送り出せたことも良い思い出です。
また1年目の2月に派遣先で、国際交流基金日米センター主催のオンラインテクノロジーを利用した教育カリキュラム開発をテーマとした、教員を目指す学生へ向けたワークショップが開催されました。参加者の方々と日本文化に関連したオンライン資料の使い方を話し合い発表するという場でした。私は食事も含んだレセプションの一環として和食のプレゼンテーションを担当しました。参加者の方々から「日本食ってが深いね」、「今度は寿司以外の料理も食べてみる」といったコメントがあり、食事の前に日本食の特徴を伝えられたことで、より深く日本の食文化を届けることができたのだと実感しました。料理は得意分野ではなかったのですが、私にも伝えられることがあって、喜んでくれる人がたくさんいるのだと気づいてから、今まで開催をためらっていた料理ワークショップなどにも精力的に取り組むようになったきっかけのイベントです。


1年目は学内での活動や学外では学校訪問が多かったのですが、2年目は地域の図書館やコミュニティーセンターと協力してのイベントやワークショップを行うことができ、老若男女幅広い年代の方々と関わることができました。図書館へのアウトリーチを始めたばかりのころ、おりがみや紙芝居などのアクティビティを依頼されることが多かった中で、「日本のパンを作ってくれない?」と言われたことがありました。まったく予想していなかった提案に、「パン?!」と聞き返してしまったのですが、世界のパンを集めるという面白い企画で、日本のブースを出すことになりました。試行錯誤した結果、もちあんこパンを作ることができ、当日のブースではもちとあんこができるまでをボードで説明し、実際に試食してもらいました。参加してくれた方は、「日本の食材は今まで食べたことがなかったのだけれど、私パン好きだから食べちゃった」と言ってくれました。未知の食べ物だと躊躇してしまうかもしれないけれど、普段から親しみのあるものにスパイスのように加えるだけで、より相手に届きやすくなることが学べました。それが実践できたことは大きな経験になりました。

ホームスクールの子どもたちが週に1回集まるクラブにも定期的に訪問しました。日本のサブカルチャーに興味のある子どもが多く、ポップカルチャーを紹介したり、キャラクターの名前を使ったかるた(例えば、な→ Naruto is eating ramen)を一緒に製作したりしました。日本のおもちゃ紹介の際に、将棋を持っていったところ6歳と8歳の子が目をキラキラさせて、「もしかしてこれって、あのアニメにでてくるゲーム?」と言って、初めてみる駒の動き方も習いながら一生懸命に遊んでいるのを見て、アニメの影響力に驚くと同時に心が温かくなりました。

最後に、JOIコーディネーターとして活動した2年間で、本当に濃く貴重な経験をさせていただきました。このような機会をくださった国際交流基金、ローラシアン協会、メアリーワシントン大学の皆様に感謝いたします。JOIで出会ったすべての方々との時間、たくさんの出会いから生まれた繋がりが私の宝物です。これからの更なるプログラムの発展を願っております。
アメリカ社会における思想間対立と郷土愛
JOIの活動を終え2年ぶりに帰国すると、会う人に「最近のアメリカは大変そうだね」「大丈夫だった?」と声を掛けられることがあります。日本の報道番組でも、アメリカ各地で起こる南北戦争時代の銅像撤去や民衆の対立・デモが毎日のように流れています。個人的には、アメリカ社会におけるこの激動の2年間を、JOIコーディネーターという立場で体感できた事は大変貴重だったと思っています。活動を振り返り、アメリカ社会の地域思想について、私が草の根レベルで感じたことを以下に共有させて頂きたいと思います。
まず、私が活動していたバージニア州南西部のフランクリン郡を中心とした地域は、人々の郷土愛が強く、伝統や生活文化に誇りを持っている住民が非常に多いと感じました。しかもこの傾向は年配の世代だけでなく、若年層の大多数にも見られることが多くの日本の田舎とは異なります。国勢調査によれば郡の人口も年々増加しており、過疎化を知らない地域と言えます。特に私が知り合った教職員の中には、この地域で生まれ育ち、大学や就職を機に都市へ移り住むも、再び故郷に戻ってきたUターン者が多く見られました。
その一方でこの地域には、現状の生活に事足りており自分たちの生活圏内から出ることが一生の間でほとんど無い、という住民も少なくありませんでした。もちろん経済的な理由が大きいのですが、小中高のクラスを訪問すると、飛行機に一度も乗ったことが無い生徒が大半で、バージニア州から出たことがない子どもたちも多く見受けられたのが印象的でした。また、住民の多くは国外の文化や料理等に目を向けることも少なく、時に狭い価値観も見受けられました。
これらは決して間違った傾向・習慣という訳ではありません。自分たちの生まれ育った地域を愛し、郷土の文化に誇りを持てる事ほど素晴らしいものは無いと私は考えます。そういった中で、私の考えるJOIコーディネーターとしての役割は、現地の人々の持っているそうした価値観や生活習慣に加え、自分たちの行動範囲から一度外を向くきっかけを与えることだったと考えています。そうすることで、子どもたちは将来の選択肢・可能性を大きく伸ばすことができ、幅広い視野を持った人間が形成されます。

また、現在のアメリカにおける教育制度に関して言えば、学習指導要綱と州単位で実施される年度末の習熟度テストに公立校の先生たちは縛られ、「無駄な」指導範囲を省き、いかに効率よく子どもたちの点数を伸ばすかという思考に陥っている事例もしばしば見られました。その中で時々、訪問するフランクリン郡の学校や先生の中には、JOIを始めとする草の根活動の理念や生徒たちへ与える影響を理解している方もおり、「外に触れる機会が少ないこの地域の子どもたちにとって、あなたの活動は本当に貴重なの」というお言葉をこれまでに何度か頂いたことがありました。限られた時間の中で、いかに子どもたちの学力を伸ばすかを求められている先生たちにとって、JOIの活動は一見指導範囲「外」に映るかもしれません。しかし、JOIの活動で紹介される日本的な考えや指導方法が、現地の学校での教え方に工夫をもたらすこともあり得ます。例えば、小学校低学年の算数で三角形や四角形などの幾何学を導入する際、簡単な折り紙を活用することを私は提案してきました。このように全く違う観点や考え方、発想を与えることで、JOIの活動が現地の教育制度の改善にも役立っていると思います。

また、周辺の町からも「特に田舎」と言われるフランクリン郡ですが、人口増加に伴い、少しずつ中南米や中華圏からの移民が増えているとのことでした。訪問していた小中学校にも、まだアメリカに来たばかりで英語が話せないという生徒もちらほら見られました。そういった生徒は、周りの子どもたちとの間で言語や人種といった壁を感じ、しばしば孤立していることもありました。私の赴任当初からJOIの活動に広く賛同・協力頂いた、郡教育委員会のミューズ指導主幹のお言葉を借りれば、「今後人種の多様化が進んで行くフランクリン郡において、他国の文化を学ぶ事は、学級の中でお互いを理解する事にも繋がっていく」と言えます。昨今のアメリカ社会が直面している思想間対立の根本的な解決には、JOIのような草の根レベルの活動が今後更に必要となっていくと再認識をした瞬間でした。

現行の指導要綱の壁を乗り越え、先生たちの意識を変えると同時に、人々の郷土愛の中に、何か海外・多様化する社会に目を向ける種のようなものを植えてあげることができないかと日々考えながら、活動に取り組んだ2年間でした。最後になりましたが、私のこれまでの活動にご支援・ご協力いただいた日本側・アメリカ側の皆様に厚く御礼申し上げます。本当にありがとうございました。
バージニアで拡大ネット和ーク
私のJOI2年目の夏は、コミュニティカレッジ間をつなぐシンポジウムでのプレゼンテーションから幕を開けました。夏休み中にバージニア大学において催された1週間のシンポジウムには、州内の5つのコミュニティカレッジから参加者が集まり、アジアやロシア、アラブ諸国などの文化に関する講義が行われました。私の2年目の活動は、そこで出来た繋がりを基に広がっていくことになりました。

9月にはシンポジウムに参加していた先生方からのリクエストをいただき、バージニアの南西部を訪問しました。カレッジがあるリッチランドへは、シャーロッツビルから車で4.5時間ほどの道のりでした。3泊4日のビジネストリップを計画し、シンポジウムで出会った先生方の企画の下、幼小中高、大学と様々なレベルの学校を訪問しました。4日間で行ったプレゼンテーションの参加者は550人にも上りました。どこに行っても私の話を熱心に聴く学生や先生方をみて、こうして日本人として遠く離れた地に出向くことの意義を改めて感じました。ここで私のプレゼンテーションを聞いた小学生の保護者から12月頃に連絡をいただき、「娘のクリスマスプレゼントにあなたが紹介していたランドセルを買いたいんだけど、どこで買えるのか教えてくれませんか」と聞かれたこともありました。
翌月の10月にはシャーロッツビルから比較的近くにあるブルーリッジコミュニティカレッジ(以下BRCC)を訪問することができました。こちらにも3日間滞在し、茶道や日本伝統芸能、ポップカルチャー、福島の原発問題などといったトピックをお話しました。BRCCには日本語のプログラムはありませんでしたが、オンラインで日本語のクラスを取っている学生や、独学で日本語を勉強している学生が何人もいたことに驚きました。
JOI最終年である2年目の目標には、私がいなくなった後にも“使えるモノ”を残す、といったものがありました。日本に関する情報や教材が比較的手に入りやすいシャーロッツビルと、日本に関する興味関心が強い人々が多い地域とをつなぐことがしたい、という私の1年前からの思いは、2年目を迎えて一層強くなっていました。この思いを実行するつもりで、シャーロッツビルにあるピーデモント・バージニア・コミュニティカレッジ(以下PVCC)の先生方の力を借り、日本関連でコミュニティカレッジ間をつなげることを目的としたイベントを企画しました。

PVCには日本語プログラムがあることに加え、百人一首や書道、茶道などの日本文化に詳しい学生がたくさんいます。また、熱心な日本語の先生の下、日本文化に関するイベントも活発に行われています。対してBRCCでは、日本語のクラスはなく、日本に関する文化的なイベントを行うためのリソースも手に入りにくい状態でした。しかしBRCCには、日本文化に大変興味のある先生方や学生が山ほどいます。わずか1時間半ほどしか離れていないこの2つのカレッジを1度つなぐことができたら、私が日本に帰った後も何かできるのではないか。そう思い、この二つのコミュニティカレッジの先生と協力し、両カレッジの職員や学生を対象とした茶道ワークショップを開催することにしました。
ワークショップでは、11年間にも渡って茶道を勉強しているというPVCCの学生を招いて、デモンストレーションや茶道の歴史、哲学についての講義を行ってもらいました。ワークショップ後半には参加者同士がペアをつくり、パートナーにお茶を立てて出す、といった茶道体験も行いました。参加者の方々にはとても満足していただいたようで、とりわけBRCC側の方々からは、「これをきっかけにシャーロッツビルで行われているイベントの存在を知ることが出来た」「日本文化をもっと深く知ることの出来る素晴らしい出会いがあった」など、うれしい言葉をいただきました。そして何より、ワークショップで出来たつながりを通して、PVCCとBRCCが共同で日本文学読書クラブを設立する、というアイディアも生まれました。2つのカレッジの先生方や学生達がこのようにして繋がるきっかけを作れたことを、大変嬉しく思いました。
コミュニティカレッジ関係以外にも、1年目に引き続き学校訪問やコミュニティ訪問を行いました。夏休みには、シャーロッツビルで初めての試みである中学生対象の日本語サマーキャンプを企画し、高校の日本語の先生と一緒に試行錯誤で実施しました。課題も多く残りましたが、費用や場所の確保、宣伝の方法など、キャンプを実施するために必要なものを明確にすることができました。今年の経験を生かして来年も続くのではないかと思っています。


この2年間を通して、素晴らしい出会いと様々なスキルを手に入れることができました。この機会を私に与えてくださった全ての皆様に感謝いたします。
I love Halifax
還暦を迎え、第二の人生のスタートに海外ボランティアの道を探していた時、JOIコーディネーターの募集を知り、応募したのが始まりでした。2年間の任務を私なりにこなして帰国できましたことは大きな喜びです。
派遣先は、バージニア州南部、ノースカロライナとの州境に近い田舎町ハリファックスの教育委員会でした。人口は3万5千人程で、おおざっぱに分けて白人6割、黒人4割、ヒスパニック系他が2%程です。人口減少率4.9%、貧困レベル以下の世帯が18.6%(U.S. Census 2007)。バイブルベルトと言われるアメリカ南部の特徴を顕著に持つ地域で、キリスト教各宗派の教会があちこちに建っています。人々は教会を中心に、助け合い支えあって生活していて、古き良きアメリカが残っています。
初対面の人から何度も聞かれたのが「何故こんなところに日本文化を紹介する人が派遣されたの?」でした。在住日本人ゼロ、日本企業の進出も大学もないハリファックスでは、日本と言えば、市場独占かと思えるほど多い日本車、中国人が経営する日本食(と言っても日本風の中華)レストラン、漫画やゲームといった商品です。これほど日本とのつながりが少ない所への派遣は、2002年にJOIプログラムが始まって以来だったことでしょう。グローバル教育の必要性を主張していた教育委員会の管理職の熱意で実現した派遣ですが、受け入れ側にとってもまた赴任した私にとってもゼロからの出発、全てが手探りで始まりました。
しかし、たった一人の実物の存在は、そこに居るだけで日本の広告塔の様に映ったに違いありません。「遠い異国に文化紹介のボランティアに来た60歳の日本女性」というだけで周囲の注目を集め、よくこんな田舎の教育事情の悪い所に来て下さったと感謝されて、大いに歓迎された事はとてもラッキーでした。活動でプレゼンテーションをする度に地方紙に写真入りで紹介され、頻繁に新聞に載るもので、「ハリファックスで一番のセレブね」とも言われました。広告塔に徹することにして、できるだけ着物や、着物を潰して作った作務衣で出掛けるように心がけました。
1年目に好評だった太鼓演奏会をもう一度やろうと、大手スーパーのWal-Martから助成金を頂き、2度目の太鼓演奏会を開催して、生徒や市民に日本太鼓の演奏を楽しんでもらいました。また、毎日同じ学校に通って日本文化(紙芝居、習字、学校生活、年中行事、お箸を使った日本人の食事マナー等)を紹介する機会もありました。お隣の州の学校からも文化紹介の依頼が来るようになり、ますます忙しくなりました。
2年で任期を終えて私が居なくなることを考えると、何か継続して日本文化に接する場や機会を残さなければとの思いを強くしていたある日、ホームステイ先の庭の芝生に椎茸が生えているのを発見。英語名も「Shiitake」と呼ばれて需要・供給もあり、他の椎茸より栄養価も価格も高いことが分りました。里山保全活動で経験していた椎茸栽培のノウハウが、米国ハリファックスの地域興しに役に立つのではないかと心の高揚を覚えました。合わせて桜の植樹もしようと、椎茸栽培紹介と桜の植樹祭の2つのプロジェクトを実行する方針を固めました。
全てが順調に進んだわけではありません。2008年末には首に腫瘍が見つかり、一時は活動を中断して帰国せざるを得ないかと考えましたが、治療を受けて無事に回復。また、椎茸栽培に使う原木が、私の指示した通りに手に入らず、バージニア工科大学公開教育部ハリファックス事務所の担当官と、実際に林に入って伐採したこともありました。苦労を乗り越えつつ、無事に3月初めには、椎茸栽培の実践セミナーを高校の農業クラスや地域のセンターで開催することができ、ヘルシーな日本食に対する関心とShiitakeの収穫に期待する参加者の熱意を感じました。そして何よりも嬉しい事に、協力して下さった大学の担当官が、今後も継続して椎茸栽培の公開講座を催す事を約束して下さいました。

4月には地元のエドモンド公園で桜の植樹祭が開催できました。小学校の生徒達には日本語と英語で「さくら」を歌って式典を盛上げてもらいました。実は懸念が的中し、7月の時点で半数以上の木が枯れてしまう事態となったのですが、帰国寸前に「桜植樹基金」が設立できて、2009年の冬に桜を植え直す事と、今後も継続して植樹していく目途が立ちホッとしました。JOIプログラムでは合言葉のように“Each site is different.(それぞれの派遣先でそれぞれ独自の活動を)”と言われていましたが、正に、片田舎ハリファックスならではのアウトリーチ活動になったと思います。
米国での2年間の生活を終えて心に深く残っているのは、人々のいつもポジティブで前向きな考え方や、あらゆるチャンスを捉えて子どもに限らず大人をも褒める習慣、感謝や喜びを言葉に表して心配りをする生き方です。皆さんからの温かい言葉と励ましに支えられて任期を全うすることができたと感謝しています。
貴重な機会を与えご支援下さった日米センターとローラシアン協会のスタッフの方々に深くお礼を申し上げます。
